》んだ雌のひとり天下になると見える。蜜蜂《みつばち》やかまきりの雄の運命ともよく似たところがあるのである。蜜蜂の雄虫は生殖の役目を果たすと同時に空中から石のごとく墜《お》ちて死ぬ。かまきりの雄は雌に食われてその栄養になる。こういう現象の共通性はどうも偶然とは思われない。種族の保存上必要な天然の経済理法によるものかもしれない。人間の場合にこの理法がどういうふうに適用されるものか、それはわからない。しかし、妻子を食わせるために犠牲になって枯死する人間の多いことだけは事実である。しかし、結局人間でも昆虫《こんちゅう》でも植物でも、そうして死ぬることによって自分の生命を未来に延長させているのである。
ヴェランダの上にのせた花瓶《かびん》代用の小甕《こがめ》に「ぎぼし」の花を生けておいた。そのそばで新聞を読んでいると大きな虻《あぶ》が一匹飛んで来てこの花の中へもぐり込む。そのときに始めて気のついたことは、この花のおしべが釣《つ》り針《ばり》のように彎曲《わんきょく》してその葯《やく》を花の奥のほうに向けていること、それからめしべの柱頭はおしべよりも長く外方に飛び出してしかもやはり同じように曲がっているということである。それで、虻が蜜汁《みつじゅう》をあさってしまって、後ろ向きにはい出そうとするときに、虻の尻《しり》がちょうどおしべの束の内向きに曲がった先端の彎曲部《わんきょくぶ》に引っかかり、従って存分に花粉をべたべたと押しつけられる。しかし弱い弾性しか持たぬおしべは虻の努力に押しのけられて、虻の尻がその囲みを破って、少し外方に進出するとそこにちゃんとめしべの柱頭が待ち構えていたかのように控えているのである。そんな重大な役目を他人のために勤めたとは夢にも知らない虻は、ただ自分の刻下の生活の営みに汲々《きゅうきゅう》として、また次の花を求めては移って行くのである。自然界ではこのように、利己がすなわち利他であるようにうまく仕組まれた天の配剤、自然の均衡といったようなものの例が非常に多いようである。よく考えてみると人間の場合でも、各自が完全に自己を保存するように努力さえしていれば結局はすべての他のものの保存に有利であるという場合がかなり多いような気がする。人を苦しめ泣かせる行為は結局自分をいじめ殺す行為であるような気もするのである。
この数日間の植物界見物は実におもしろかった。
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