fを感じる若者も多かったであろうが、中にはわざわざ彼女達につかまって田の泥を塗られることの快感を享楽するために出かける人もあるという話を聞いたことがあったようである。
 一度実際に泥を塗られている場面を見たことがある。その時の犠牲は三十恰好の商人風の男で、なんでも茶がかった袷《あわせ》の着流しに兵児帯《へこおび》をしめていたように思う。それが下駄を片手にぶらさげて跣足《はだし》で田の畦《あぜ》を逃げ廻るのを、村のアマゾン達が巧妙な戦陣を張ってあらゆる遁《に》げ路《みち》を遮断しながらだんだんに十六むさしの罫線のような畦を伝って攻め寄せて行った。その後から年とった女達が鍬《くわ》の上に泥を引っかけたのを提《さ》げて弾薬補給の役目をつとめるためについて行くのである。とうとうつかまって顔といわず着物といわずべとべとの腐泥《ふでい》を塗られてげらげら笑っている三十男の意気地なさをまざまざと眼底に刻みつけられたのは、誠に得難い教訓であった。維新前の話であるが、通りがかりの武士が早乙女に泥を塗られたのを怒ってその場で相手を斬殺した事件があって、それを種に仕組んだ芝居が町の劇場で上演されたこともあっ
前へ 次へ
全11ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング