で蓋をあけて、しばしば絵具を検査した。夕焼けの雲の色、霜枯れの野の色を見ては、どうしたらあんな色が出来るだろうと、それが一つの胸を轟かすような望みであった。伯父は画かきになったらどうだと云った事がある。自分も中学に居た頃父にその事を話して、絵を習わせてくれぬかと願った事がしばしばある。その度に父はいつでもこう云っていた。俺はおまえの行末の志望については少しも干渉せぬ。附け焼刃と云うものは何にもならぬものである。何でも自分の好いた方、気に向いた事をやるが得策だ。しかし絵はそればかりを職業として、それで生活しようと云うにはあまりに不利なものである。せっかく腕は立派でも、衣食に追われて画くようでは、よい絵は出来ず、第一絵に気品がなくなる。何でもいいが、外にも少し立派に衣食の得らるるような事を修めて、傍ら自分の慰み半分絵をかく事にしたらどうか。衣食足った人の道楽に画いたものは下手でも自然の気品があって尊いものだ。とこう云うのである。自分もなるほどと思ってその方はあきらめたが、さらば何をやって身を立てるかと考えても、やっと中学を出ようと云う自分に、どんな事が最も好いか分り兼ねた。工科は数学が要る
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