。何者とも知れぬ権威の命令で、自分は未来|永劫《えいごう》この闇の中に封じ込められてしまったのだと思う。世界の尽きる時が来ても、一寸もこの闇の外に踏み出すことは出来ぬ。そしていつまで経っても、死ぬと云うことは許されない。浮世の花の香もせぬ常闇《とこやみ》の国に永劫生きて、ただ名ばかりに生きていなければならぬかと思うと、何とも知れぬ恐ろしさにからだがすくむ。生涯の出来事や光景が、稲妻のように一時に脳裏に閃いたと思うとそれは消えて、身を囲《めぐ》る闇は深さも奥行も知れぬ。どうかして此処《ここ》を逃れ出たい。今一度小春の日光を見ればそれでよい。霜解け道を踏んで白雲を見ればそれでよい。恐ろしい闇、恐ろしい命と身を悶えた拍子に、氷袋がすべって眼がさめた。怖ろしい夢は破れて平和な静かな冬の日影は斜に障子にさしている。縁に出した花瓶の枯菊の影がうら淋しくうつって、今日も静かに暮れかかっている。発汗剤のききめか、漂うような満身の汗を、妻は乾いたタオルで拭うてくれた時、勝手の方から何も知らぬ子供がカタコトと唐紙《からかみ》をあけて半分顔を出してにこにこした。その時自分は張りつめた心が一時にゆるむような気
前へ 次へ
全15ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング