で蓋をあけて、しばしば絵具を検査した。夕焼けの雲の色、霜枯れの野の色を見ては、どうしたらあんな色が出来るだろうと、それが一つの胸を轟かすような望みであった。伯父は画かきになったらどうだと云った事がある。自分も中学に居た頃父にその事を話して、絵を習わせてくれぬかと願った事がしばしばある。その度に父はいつでもこう云っていた。俺はおまえの行末の志望については少しも干渉せぬ。附け焼刃と云うものは何にもならぬものである。何でも自分の好いた方、気に向いた事をやるが得策だ。しかし絵はそればかりを職業として、それで生活しようと云うにはあまりに不利なものである。せっかく腕は立派でも、衣食に追われて画くようでは、よい絵は出来ず、第一絵に気品がなくなる。何でもいいが、外にも少し立派に衣食の得らるるような事を修めて、傍ら自分の慰み半分絵をかく事にしたらどうか。衣食足った人の道楽に画いたものは下手でも自然の気品があって尊いものだ。とこう云うのである。自分もなるほどと思ってその方はあきらめたが、さらば何をやって身を立てるかと考えても、やっと中学を出ようと云う自分に、どんな事が最も好いか分り兼ねた。工科は数学が要るそうだからやめた。医科は死骸を解剖すると聞いたから断った。そして父の云うままに進まぬながら法科へはいって政治をやった。父は附け焼刃はせぬ/\と思いながら、ついに独り子に附け焼刃の政治科を修めさせた事になる。しかしこれは恐らく誰の罪でもあるまい。自分はこの事を考えると、何よりも年老いた父に気の毒だ。せっかく一身を立てさせようと思えばこそ、祖先伝来の田地を減らしてまで学資を給してくれた父を、まあ失望させたような有様で、草深い田舎にこの年まで燻ぶらせているかと思うと、何となく悲しい心持になってしまうのだ。三十にしてなお俗吏なりと云うような句があったと思うが、自分の今は正にそれである。今年の文官試験にも残念ながら落第してしまった。課長の処へ挨拶に行ったら、仕方がないまたやるさと云ってくれた。自分もそう思った。去年の試験にしくじった時もやはり仕方がないと思ったが、その時の仕方がないと今度のとは少し心持が違う。去年のは何処か快活な、希望の力の籠った「仕方がない」であったが、今度のにはもう弱い失望の嘆声が少し加わったように思われる。自分ながら心細い。
四、五日前役所で忘年会の廻状がまわった。会費は年末賞与の三プロセント、但《ただ》し賞与なかりし者は金弐円也とあった。自分は試験の準備でだいぶ役所も休んだために、賞与は受けなかったが、廻状の但し書が妙に可笑《おか》しかったからつい出掛ける気になって出席した。少し酒を過ごしての帰り途で寒気がしたが、あの時はもう既に病に罹っていたのだ。帰って寝たら熱が出てそれきり起きられぬ。医者は流行性でたいした事はないと云っていたが、今日来た時は妙に丁寧に胸を叩いたり聞いたりして首をひねってとうとうあんなことを云って帰った。いよいよ肺炎だろうか。そう思うとなんだか呼吸が苦しいようである。熱はだんだん上がるらしい。天井を見ると非常に遠く見える。耳が絶えず鳴っている。傍に坐った妻の顔が小さく遠い処に居るようで、その顔色が妙に蒼く濁って見える。妻は氷袋を気にして時々さわってみるが、始終無言である。子供はまだよく寝ているか音もせぬ。何となく淋しい。人には遠く離れた広間の真中に、しんとして寝ているような心持である。表の通りでは砂利をかんで勢いよく駈ける人車《じんしゃ》の矢声《やごえ》も聞える。晴れきった空からは、かすかな、そして長閑《のどか》な世間のどよめきが聞えて来る。それを自分だけが陰気な穴の中で聞いているような気がする。何処か遊びに行ってみたい。行かれぬのでなおそう思う。田端《たばた》辺りでも好い。広々した畑地に霜解けを踏んで、冬枯れの木立の上に高い蒼空を流れる雲でも見ながら、当《あて》もなく歩いていたいと思う。いつもは毎日一日役所の殺風景な薄暗い部屋にのみ籠っているし、日曜と云っても余計な調べ物や内職の飜訳などに追われて、こんな事を考えた事も少ないが、病んで寝てみると、急に戸外のうららかな光が恋しくて胸をくすぐられるようである。早くなおりたい。なおったらみんなを連れて一日くらい遊びに行こう。いつ治るだろう。無論治る事はきっと治ると思ってみたが、ふっと二、三年前肺炎で死んだ姪の事を思い出す。姪は死ぬる少し前まで、わたしが治ったら何処へ行くとか、何を買うとか、よくそんな事を云っていたので、死んでからはみんなでそのことを云ってよく泣いた。肺炎は容易ならぬ病気だと思うと、姪の美しく熱にほてった、いまわの面影がありあり見える。しかし自分は死にたくても死なれぬ。もしもの事があったら老い衰えた両親や妻子はどうなるのだと思うと満身の血潮は一時に頭に
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