枯菊の影
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)もう一遍《いっぺん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)朝|一遍《いっぺん》田を見廻って、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)附け焼刃はせぬ/\と思い
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少し肺炎の徴候が見えるようだからよく御注意なさい、いずれ今夜もう一遍《いっぺん》見に来ますからと云い置いて医者は帰ってしまった。
妻は枕元の火鉢の傍で縫いかけの子供の春着を膝へのせたまま、向うの唐紙《からかみ》の更紗《さらさ》模様をボンヤリ見詰めて何か考えていたが、思い出したように、針を動かし始める。唐縮緬《とうちりめん》の三《み》つ身《み》の袖には咲き乱れた春の花車が染め出されている。嬢やはと聞くと、さっきから昼寝と答えたきり、元の無言に帰る。火鉢の鉄瓶の単調なかすかな音を立てているのだけが、何だか心強いような感じを起させる。眼瞼《まぶた》に蔽いかかって来る氷袋を直しながら、障子のガラス越しに小春の空を見る。透明な光は天地に充ちてそよとの風もない。門の垣根の外には近所の子供が二、三人集まって、声高《こわだか》に何か云っているが、その声が遠くのように聞える。枕につけた片方の耳の奧では、動脈の漲る音が高く明らかに鳴っている。
また肺炎かと思う。これまで既に二度、同じ病気に罹《かか》った時分の事も思い出す。始めての時はまだ小学時代の事で、大方の事は忘れて仕舞った。病気の苦しみなどはまるきり忘れてしまって、ただ病気の時に嬉しかったような事だけが、順序もなく浮んで来る。いったい自分は両親にとっては掛け替えのない独り子で、我儘《わがまま》にばかり育ったが、病気となると一層の我儘で手が付けられなかったそうである。薬でもなかなか大人《おとな》しくのまぬ。これを飲んだらあれを買ってやるからと云ったような事で、枕元には玩具《おもちゃ》や絵本が堆《うずたか》くなっていた。少し快《よ》くなる頃はもう外へ遊びに出ようとする、それを引き止めるための玩具がまた増した。これが例になって、その後はなんでも少し金目のかかるような欲しい物は、病気の時にねだる事にした。病気を種に親をゆするような事を覚えたのはあの時だっ
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