腹が立った。その時ばかりは兵隊が可哀相で、反身《そりみ》になった士官の胸倉へ飛び付いてやろうかと思った。それ以来軍人と云うものはすべてあんなものかと云うような単純な考えが頭に沁みて今でも消えぬ。こんな訳だから、学校でも軍人希望の者などとはどうしても肌が合わぬ、そう云う連中から弱虫党と目指されて、行軍や演習の時など、ずいぶん意地悪くいじめられたものだ。実際弱虫の泣虫にはちがいなかったが、それでも曲った事や無法な事に負かされるのは大嫌いであった。無理の圧迫が劇《はげ》しい時には弱虫の本性を現してすぐ泣き出すが、負けぬ魂だけは弱い体躯を駆って軍人党と挌闘《かくとう》をやらせた。意気地《いくじ》なく泣きながらも死力を出して、何処でも手当り次第に引っかき噛みつくのであった。喧嘩を慰みと思っている軍人党と、一生懸命の弱虫との挌闘にはたいてい利口な軍人の方が手を引く。これはどちらが勝ってどちらが負けたのだか、今考えても判らない。
 ウトウトこんな事を考えていたが、気がついてみると垣の外ではさっきの子供等がまだ大きな声で歌ったりわめいたりしている。年かさらしいのが何か大将ぶって指揮している。こんなのもおおかた軍人党になるだろうと思って、過ぎたわが小半生の影が垣の外にちらつくように思う。突然向うの家の板塀へ何か打《ぶ》っつけた音がしたと思うと一斉に駆け出してそれきり何処かへ行ってしまった。凧《たこ》のうなりがブンブンと聞えている。熱は追々高くなるらしい。口が乾いて舌が上顎に貼り付く。少し眠りたいと思うて寝返りをすると、額の氷袋の氷がカチカチと鳴って袋は額をはなれる。まだ傍で針を使うていた妻はそれを当てなおしながら気分を問う。一片の旨い氷を口に入れてもらう。
 もう何事も考えまいと思ったが、熱のために乱れた頭にはさっきまで考えていたような事がうるさく附き纏《まと》うて来る。そして脳が過敏になっているためか、不断はまるで忘れていたような事まで思い出して来る。自分は子供の時から絵が好きで、美しい絵を見れば欲しい、美しい物を見れば画いてみたい、新聞雑誌の挿画でも何でも彩色してみたい。彩色と云っても絵具は雌黄《しおう》に藍墨《あいずみ》に代赭《たいしゃ》くらいよりしかなかったが、いつか伯父が東京博覧会の土産に水彩絵具を買って来てくれた時は、嬉しくて幾晩も枕元へ置いて寝て、目が覚めるや否や大急ぎ
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