れともまたこのようなものを作りあげるに必要な秩序や理法が人間の方に備わっているので、われわれはただ自己の内にある理法の鏡に映る限りにおいて自己以外と称するものを認めるのであろうか。これは六かしい問題である。そして科学者にとっても深く考えてみなければならない問題である。しかしここでこの問題に立入ろうというのではない。
ともかくも言語があるという事は知識の存在を予定する。そしてそれがある程度の普遍性をもつものでなければならない。そうでなければ、人々は口々に饒舌《しゃべ》っていても世界は癲狂院《てんきょういん》かバベルの塔のようなものである。
共通な言葉によって知識が交換され伝播《でんぱ》されそれが多数の共有財産となる。そうして学問の資料が蓄積される。
このような知識は、それだけでは云わばただ物置の中に積み上げられたような状態にある。それが少数であるうちはそれでもよい。しかし数と量が増すにつれて整理が必要になる。その整理の第一歩は「分類」である。適当に仕切られた戸棚や引出しの中に選り分けられて、必要な場合に取り出しやすいようにされる。このようにして記載的博物学の系統が芽を出し始める。
分類は精細にすればするほど多岐になって、結局分類しないと同様になるべきはずのものである。しかしこの迷理を救うものは「方則」である。皮相的には全く無関係な知識の間の隔壁が破れて二つのものが一つに包括される。かようにしてすべての戸棚や引出しの仕切りをことごとく破ってしまうのが、物理科学の究極の目的である。隔壁が除かれてももはや最初の混乱状態には帰らない。何となればそれは一つの整然たる有機的体系となるからである。
出来上がったものは結局「言語の糸で綴られた知識の瓔珞《ようらく》」であるとも云える。また「方則」はつまりあらゆる言語を煎じ詰めたエキスであると云われる。
道具を使うという事が、人間以外にもあるという人がある。蜘蛛《くも》が網を張ったり、ある種の土蜂《つちばち》が小石をもって地面をつき堅めるのがそれだという。しかしそれは智恵でするのではなくて本能であると云って反対する人がある。それはいずれにしても、器具というものの使用が人類の目立った標識の一つとなる事は疑いない事である。
そして科学の発達の歴史はある意味においてこの道具の発達の歴史である。
古い昔の天測器械や、ドルイドの石
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