言語と道具
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)これも六《むつ》かしい問題

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(例)[#地から1字上げ](大正十二年五月『理学界』)
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 人間というものが始めてこの世界に現出したのはいつ頃であったか分らないが、進化論に従えば、ともかくも猿のような動物からだんだんに変化して来たものであるらしい。しかしその進化の如何なる段階以後を人間と名づけてよいか、これも六《むつ》かしい問題であろう。ある人は言語の有無をもって人間と動物との区別の標識としたら宜《よ》いだろうと云い、またある人は道具あるいは器具の使用の有無を準拠とするのが適当だろうという。私にはどちらが宜いか分らない。しかしこの言語と道具という二つのものを、人間の始原と結び付けると同様に、これを科学というものあるいは一般に「学」と名づけるものの始原と結び付けて考えてみるのも一種の興味があると思う。
 言語といえども、ある時代に急に一時に出来上がったものとは思われない。おそらく初めはただ単純な叫び声あるいはそれの連続であったものが、だんだんに複雑になって来たものに相違ない。あるいは自然界の雑多な音響を真似てそれをもってその発音源を代表させる符号として使ったり、あるいはある動作に伴う努力の結果として自然に発する音声をもってその動作を代表させた事もあろう。いずれにしても、こういう風にしてある定まった声が「言葉」として成立したという事は、もうそこに「学」というものの芽生えが出来た事を意味する。例えば吾人《ごじん》が今日云う意味での「石」という言葉が出来たとする。これは既に自然界の万象の中からあるものが選び出され抽象されて、一つのいわゆる「類概念」が構成された事を意味する。同様に石を切る、木を切るというような雑多な動作の中から共通なものが抽象されて、そこに「切る」という動詞が出来、また同様にして「堅い」というような形容詞が生れる。これらの言葉の内容はもはや箇々の物件を離れて、それぞれ一つの「学」の種子になっている。
 こういう事が出来るというのが、大きな不思議である。
 一体これらの言葉あるいはそれに相当する抽象的な概念は自然その物に内存していて、われわれはただ自然の中からそれを掘り出しまたは拾い出しさえすれば宜いものであろうか。そ
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