研究的態度の養成
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)誤間化《ごまか》して

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)往々|否《いな》多くの場合に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正七年十月『理科教育』)
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 理科教授につき教師の最も注意してほしいと思うことは児童の研究的態度を養成することである。与えられた知識を覚えるだけではその効は極めて少ない。今日大学の専門の学生でさえ講義ばかり当てにして自分から進んで研究しようという気風が乏しく知識が皮相的に流れやすいのは、小学校以来の理科教授がただ与えられた知識を覚えればよいというように教えこまれている結果であろう。これには最も必要なことは児童に盛んに質問させることである。何の疑問も起さないのは恥だという風に、訓練することが必要である。そうして児童の質問に対して教師のとるべき態度について二つの場合があると思う。その一は児童の質問に答うることの出来なかった場合である。その二は教師がよく知って答え得る場合である。
 前者の時には往々|否《いな》多くの場合に教師はよい加減に誤間化《ごまか》して答えようとする傾きがある。これは甚だよくないことはいうまでもない。かくて児童が誤った、また全然誤っていないにしても浅薄な解釈しか出来ないことになる。この時はむしろ進んで、先生はこれを知らない、よく調べて来ましょう、皆さんもまたよく考えてお出でなさい、いろいろ六《むつ》ヶしいまた面白いことがあるだろうと思いますといった風に取扱ってほしい。とにかく児童には、知らないことが恥でない、疑いを起さないこと、またこれを起しても考えなかったり調べなかったりすることが大なる恥である、わるいことであるといった精神を充分|鼓吹《こすい》してほしいと思う。教師がこの態度になることの必要は申すまでもなかろう。
 第二の場合には、教師は、そんなことを知らないのか、それはこうだといった風に事もなげに答えてしまう傾きがまた少なくないように見受ける。これはまた理科教育上極めて悪いことである。何となれば児童は知らないという事が大変悪い事と思って恥じ恐れて、それきり更になんらの疑問を起したり調べたりしないようになってしまうからである。ところが如何なる簡単なることでも実際よ
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