、一、二年前のある日の午後煙草を吹かしながら銀座を歩いていたら、無帽の着流し但し人品|賤《いや》しからぬ五十恰好の男が向うから来てにこにこしながら何か話しかけた。よく聞いてみると煙草を一本くれないかというのである。丁度持合せていたMCCかなんかを進呈してマッチをかしてやったら、「や、こりゃあ有難う有難う」と何遍もふり返っては繰返しながら行過ぎた。往来の人が面白そうににこにこして見ていた。甚だ平凡な出来事のようでもあるが、しかしこの事象の意味がいまになっても、どうしても自分には分らない。つまらないようで実に不思議なアドヴェンチュアーとして忘れることが出来ないのである。もし読者のうちでこの謎の意味を自分の腑《ふ》に落ちるようにはっきり解説してくれる人があったら有難いと思うのである。[#地から1字上げ](昭和九年八月『中央公論』)



底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店
   1997(平成9)年3月5日発行
初出:「中央公論」
   1934(昭和9)年8月
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年5月7日作成
2009年9月15日修正
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