議会の印象
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)手捜《てさぐ》りに拾い出した
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十三年)
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去年の十月だったか、十一月だったか、それさえどうしても思い出せない程にぼんやりした薄暗がりの記憶の中から、やっと手捜《てさぐ》りに拾い出した、きれぎれの印象を書くのであるから、これを事実と云えば、ある意味では、やはり一種の事実であるが、またある意味では、いつか見た事のある悪夢の記録と同じ種類のものであって、決して厳密な意味の事実ではない。
ある朝の事である。起きた時から何となく頭の工合がよくなくって、軽い一種の不満のようなものの塊が、からだの中のどこかに潜んでいるような心持であった。後になって考えてみると、これは、全くその日の天気のせいであったらしい。
そこへ、NT君が訪ねて来た。議会の傍聴に連れて行ってやろうというのである。自動車をそこに待たしてあるという。
あまり自慢にならない事であるが、自分はまだこの年までつい一度も帝国議会というものを見た事がなかった。別に見たくないという格段の理由がある訳でもなんでもないが、またわざわざ手数をして見に行きたいと思う程の特別な衝動に接する機会もなかったために、――云わば、あまり興味のない親類に無沙汰をすると同様な経過で、ついつい今まで折々は出逢いもした機会を、大して惜しいとも思わずに取外《とりはず》して来たのである。それが、どうした拍子であったか、とにかくN君とのある日の会話の経過で、いつか一度議会傍聴に案内してもらうという約束が出来上がってしまった、その約束がいよいよ履行《りこう》される日が思ったよりも実はあまりに早く来たのであった。
実は、どうもあまり気がすすまなかったのであるが、せっかくわざわざ傍聴券を手に入れて、そうして遥々《はるばる》迎えにまで来てくれたのだから、勉強してともかくも出掛ける事にした。
雨上がりの、それはひどい震災後の道路を、自動車で残酷に揺られて行くうちに、朝から身体のどこかに隠れていた、名状の出来ないものの塊が、だんだんにからだ中に拡がって来るようであった。その日は実際、荒れ果てた東京の街の上に、一面に灰色の霧のようなものが、重く蔽いかぶさったような天気であった。
自動車が玄関のような処へついて、そこからN君の後へついて上がって行こうとすると、玄関にいる人達が、そこからはいけないからあちらへ廻れという。それで停車場の改札口のような処を通り抜けて、恐ろしく長い廊下のような処に出た。それからその廊下の横の一室へ案内されて、そこで外套《がいとう》と帽子を置いた。室には、人はたった一人居たきりであるが、壁には数え切れないほど沢山の外套と帽子が掛け列ねてあった。その帽子外套の列が、どういうものか自分にはよほど遠い世界の帽子外套の列であるような気がして、軽い圧迫を感じさせられた。
廊下から階段へ上がろうとすると、そこに立っていた制服着用の役人が、私の胸の辺を指さして、何か云うようである。何かしら自分が非難されている事は分った。しかしN君が一言二言問答したら、それでよかったと見えてそのまま階段を上がって行った。そしてある室の入口に控えていた同じような制服の役人に傍聴券を差し出して、それでもういいのかと思っていると、まだ必要な手続が完了していなかったと見えてそこへはいる事を許されない。それで再びまた同じ階段を下りて、方角のわからぬ廊下をぐるぐる廻って行った。階段も廊下もがらんとして寒かった。初め這入《はい》ったとは別の改札口へ出て、そこでN君が何かしら交渉を始めていた。外から改札口を色々な人が這入って来る。若いオールバックの男が這入ろうとすると、役人が二、三人寄って行って、その男の洋服のかくしを一つ一つ外から撫《な》で廻していた。それを見ているうちに、妙な気持になって来た。
理由の分らなかった朝からの不満が、いつの間にかだんだんに具体的な形を具えて現われて来る事が自覚された。それが丁度レンズの焦点を合せるように、だんだんにはっきりして来るのであった。
そういう心持を懐《いだ》いて、もう一度がらんとした寒い廊下と階段を上がって、そうしてようやく目的の関門を通過して傍聴席の入口を這入った。
這入った処は薄暗い桟敷《さじき》のような処で、それに一杯に人が居るようであった。桟敷の前には、明るくて広い空間が大きな口を開いていた。始めてこの桟敷から見下ろした瞬間の心持は、ちょっとした劇場の安席から下を見下ろした時のような心持であった。
場内の通風はあまり良好でないのか、傍聴席の空気は甚だ不純なようであった。
傍聴者は、みんな非常に真面目に黙って
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