ある。次点者は十三という数で惜敗したそうである。しかし事前におけるノルマルの鼓動数が書いてないから増加のパーセントはわからない。少しばかげてはいるが、とにかくも人間のテンペラメントを数字で代表させようという傾向を示すものとして興味があるであろう。
 これらの例で明らかであるように、いわゆるレコードはすべて数字によって記録されるものである。場合によっては数の大きいほどいいこともありまた場合によっては少ないほどすぐれていることもあるが、とにかく一線の上に連続的に配列された数量の尺度によって優劣をきめるのである。こうしなければ優劣は単義的に決定しない。従ってレコードは設定されず、設定されないレコードは「破る」こともできない、破れないレコードはいわゆるレコードではないのである。たとえば帽子の代わりにキャベツをかぶって銀座《ぎんざ》を散歩した男があるとすれば、これは確かにオリジナルな意匠としての記録に価する。しかしこのレコードは決して破られない。なんとならば、再びキャベツを用いたのでは、キャベツを用いたという質的レコードは破れないし、それかといってたとえばももんがあをかぶって新宿《しんじゅく》の通りを歩いてみても追いつかない。キャベツとももんがあ、銀座と新宿との優劣はいくら議論しても決定する見込みがないからである。そこへ行くと数字の差違は実に明確である。十五が十三より二つだけ多いことにはどうにも異議の申し立てようがないからである。
 しかしまた、数字のレコードで優勝したとしても、その人が、その数字の代表する量の大小以外の点でもすぐれているという証拠には決してならない。これは明白なことであるが、しかし、往々忘れられ勝ちな事実である。帽子のサイズのレコード保有者は必ずしも足袋《たび》の文数のレコードをもっていると限らない。百メートル競走の勝利者は千メートルでびりにならないとも限らない。気球に乗って一万メートルの高さにのぼって目をまわしておりて来たというだけの人と、九千メートルまでのぼってそうして精細な観測を遂げて来た人とでは科学的の功績から採点すればどちらが優勝者であるか、これは問題にもならない。
 レコードは上述のごとく、いわば一つの線状尺度の比較できめるだけのものである。それで、もしも、物や人の価値をきめる属性の数がただ一つならば、このような線の尺度が一つあれば間に合う。しか
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