であろう。
三越《みつこし》で陶工の作業を見た帰りの電車の中でこんな空想を起こしてみたが、あとになってもう一ぺん考え直してみると、陶工の仕事と学者の仕事との比較には少なからず無理なところがある。学問の場合には、素材というものの価値が実は非常に重大である。いい素材を発見しまた発掘するということのほうがなかなか困難であってひと通りならぬ才能を要する場合が多く、むしろそれを使って下手《へた》な体系などを作ることよりも、もっとはるかに困難であると考えられる場合も少なくはない。そうして学術上の良い素材は一度掘り出されれば、それはいつまでも役に立ち、また将来いかなる重大なものに使用されるかもしれないという可能性をもっている。これに反してその素材を用いて作り上げられた間に合わせの体系や理論の生命は必ずしも長くはない。場合によってはうちの台所の水甕《みずがめ》の生命よりも短いこともある。水甕の素材は二度と使えなくても、学説や理論の素材はいつでもまた使える。こういうふうに考えて来ると学問の素材の供給者が実に貴《たっと》いものとして後光を背負って空中に浮かみ上がり、その素材をこねてあまり上できでもない品
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