。さらにおもしろいことは、その特別な週期が各人の身体の構造の異同で少しずつちがい、それが結局は各個人の、腰掛けた位置に相当する固有振動週期を示すものらしいということである。
このおもしろい研究の結果を聞かされたときに、ふと妙な空想が天の一方から舞い下って手帳のページにマークをつけた。それを翻訳すると次のようなことになる。
時間の長さの相対的なものであることは古典的力学でも明白なことである。それを測る単位としていろいろのものがあるうちで、物理学で選ばれた単位が「秒」である。これは結局われわれの身近に起こるいろいろな現象の観測をする場合に最も「手ごろな」単位として選ばれたものであることは疑いもない事実である。いかなるものを「手ごろ」と感ずるかは畢竟《ひっきょう》人間本位の判断であって、人間が判断しやすい程度の時間間隔だというだけのことである。この判断はやはり比較によるほかはないので、何かしら自分に最も手近な時間の見本あるいは尺度が自然に採用されるようになるであろう。脈搏《みゃくはく》や呼吸なども実際「秒」で測るに格好なものである。しかしそれよりも、もっと直接に自覚的な筋肉感覚に訴える週期的時間間隔はと言えば、歩行の歩調や、あるいは鎚《つち》でものをたたく週期などのように人間|肢体《したい》の自己振動週期と連関したものである。舞踊のステップの週期も同様であって、これはまた音楽の律動週期と密接な関係をもっている。
現在の「秒」はメートル制の採用と振り子の使用との結合から生まれた偶然の産物であるが、このだいたいの大いさの次序《オーダー》を制定したものはやはり人体の週期であるという事はほとんどたしからしく自分には思われる。
さて、われわれは時の長さをこの秒で測ると同時に、またそれを「感じ」る。多数の秒数が経過したということは、その間にたくさん歩きたくさん踊ったということであり、結局たくさんの「事」をしたことである。人間の人間的活動をそれだけ多くしたという事である。換言するとそれだけ多く「生きた」ということである。
こう考えて来るとわれわれの「寿命」すなわち「生きる期間」の長短を測る単位はわれわれの身体の固有振動週期だということになる。
そこで、今かりにここに侏儒《しゅじゅ》の国があって、その国の人間の身体の週期がわれわれの週期の十分の一であったとする。するとこれらの
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