ような特別な世界が、この方四五寸の彩色美しい絵の中に躍動しているのである。この小さな菓子箱のふたを通してのぞいた珍しい世界がどんなに美しくなつかしいものであったか、ずっと晩年にほんとうの西洋へ行って見ても、この「夢の西洋」はどこにもなかった。この菓子箱のふたは自分の幼時の「緑の扉《とびら》」であったのである。それはとにかく、この絵の中のロンドン、リーディング間の郵便馬車の馬丁がシルクハットをかぶってそうしてやはり角笛を吹いている。そうして自分の「記憶」の夢の中では、この郵便馬車と、銀座《ぎんざ》の鉄道馬車とがすっかり一つに溶け合ってしまって、切っても切れない連想の糸でつながり合っているのである。
明治十九年にはもう東京を去って遠い南海の田舎に移った。そうして十年たった明治二十八年の夏に再び単身で上京して銀座《ぎんざ》尾張町《おわりちょう》の竹葉《ちくよう》の隣のI家の二階に一月ばかりやっかいになっていた。当時父は日清戦役《にっしんせんえき》のために予備役で召集され、K留守師団に職を奉じながら麹町区《こうじまちく》平河町《ひらかわちょう》のM旅館に泊まっていたのである。
Iの家の二階
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