。F屋|喫茶店《きっさてん》にいた文学青年給仕のM君はよく、銀座なんか歩く人の気が知れないと言っていたが、考えてみれば誠にもっとも至極なことである。
アルプスと言えば銀座《ぎんざ》にもアルプスができた。デパートの階段を頂上まで登るのはなかなかの労働である。そうして夏の暑い日にその屋上へあがれば地上百尺、温度の一度や二度ぐらいは低い。上には青空か白雲、時には飛行機が通る。駿河《するが》の富士や房総《ぼうそう》の山も見える日があろう。ついでに屋上さらに三四百尺の鉄塔を建てて頂上に展望台を作るといいと思う。その側面を広告塔にすれば気球広告よりも有効で、その料金で建設費はまもなく消却されるであろう。高い所に上がりたがるのは人間というものに本能的な欲望である。この欲望は赤ん坊の時からすでに現われる。自分が四歳の時に名古屋《なごや》にいたころのかすかな思い出の中には、どこか勝手口のような所にあった高い板縁へよじ上ろうよじ上ろうとしてあせったことが一つの重大な事項になっているのである。これに似た記憶は多くの人に共通なものであろう。この本能を守り立てればアルピニストになれる。エヴェレストの頂上をきわ
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