れを読んで行くのである。文字の方はその意味を覚えるまでの練習を要する代りに、一度覚え込んでしまえばその意味の内容はある程度までははっきり規定されてしまう。映画の一つのカットの内容はそういう練習を待たずに直接に視覚的に頭の中に飛び込んで来るのであるが、その代りその「意味」といったようなものは非常に複雑なもので、多くの場合に一と口では云われないようなものが多い。それは一輪の朝顔の花にしても、ある朝ある家のある鉢の朝顔をある方向からある距離から撮影した具体的の朝顔の花であるのに、文字の「朝顔の花」は時間空間から抽象された朝顔の花であるからである。それだから映画のカットはむしろ一つの文章である。しかもその限定された内容はいわゆるモンタージュ、すなわち編輯法によって始めて決定されるもので、同じ朝顔の花でも前後の関係によって色々の内容をもって現わされ得ることになるのである。
こんな理由だけからでも、映画によってすべての文字を駆逐することは出来そうもない。しかしまた同じ理由によって文字では到底勤まらない役目を映画によって仕遂げることが出来るのである。云うまでもなく、朝顔を見たことのないエスキモー土
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