、口、尻尾《しっぽ》、脚等の形態、水中にもぐって鼻づらだけ出した様子、鼻息で水を吹きとばす有様、水中で動くときに起る水の渦動、こういったようなものを十分に詳しく見せようと思っても動物はなかなか此方《こちら》の註文通りに動いてくれないし、またせっかく註文通りの部分なり挙動を示しても、その瞬間に観者の注意がそこへ向いていなければ何にもならない。それだからなかなか一度や二度の訪問でこれだけの諸点を観察することは容易でない。然《しか》るに映画の場合では撮影者が長い時間とフィルムを費やして撮影した夥《おびただ》しい材料の中から、無駄なものを省略し、最も重要なものだけを選び出し、それを巧みに編輯してあるから、観客は極めて短い時間の間にこの動物のあらゆる特徴を最も純粋にまた最も強調された形において観察することが出来るのである。あの大きな口の中の造作でも、それが大写しになってそれだけになって現われるときに始めて吾々は十分な注意をそれに集中することが出来るのである。それは外に注意を牽制すべき何物もないからである。それだからたとえ手近に動物園がある場合でも動物園の映画はそれ自身の独自な価値を主張し得るのである。ましてやアフリカ大陸の自然の棲所《すみか》で撮った河馬の映画となれば猶更《なおさら》のことである。
 ある製造工場を見学するにしても、実際の場合は一見雑然とした機械の嵐のように運転する中を案内されて説明を聞いても眼が戸まどいをして視るべき要点を掴《つか》まえることが困難であるが、適当に編輯された映画で見れば、例えば飛行機なら飛行機の製造される過程が実に明瞭によく分るのである。
 こういう訳で、映画の眼を通してものを見るということは、実物を見るとはよほどちがった長所をもっている。映画を見ることによって吾々は凡庸な観察眼の代りに異常に鋭い観察者の眼を獲得することになる。同時に非常に長い時間と多大な費用を節約し得られるのである。ある映画監督は猫が鼠を捕る光景を撮るために七十時間とそれに相当するフィルムを費やしたそうである。
 極めて平凡なものの観察でさえも映画によって始めて可能な利益があるとすれば、映画技術によってのみ得られる観察、例えば高速度撮影や反対の低速度撮影のごときものの効能は今更《いまさら》云うまでもないことである。
 しかしこういう教育映画を作るのはなかなか容易でないことも
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