れを読んで行くのである。文字の方はその意味を覚えるまでの練習を要する代りに、一度覚え込んでしまえばその意味の内容はある程度までははっきり規定されてしまう。映画の一つのカットの内容はそういう練習を待たずに直接に視覚的に頭の中に飛び込んで来るのであるが、その代りその「意味」といったようなものは非常に複雑なもので、多くの場合に一と口では云われないようなものが多い。それは一輪の朝顔の花にしても、ある朝ある家のある鉢の朝顔をある方向からある距離から撮影した具体的の朝顔の花であるのに、文字の「朝顔の花」は時間空間から抽象された朝顔の花であるからである。それだから映画のカットはむしろ一つの文章である。しかもその限定された内容はいわゆるモンタージュ、すなわち編輯法によって始めて決定されるもので、同じ朝顔の花でも前後の関係によって色々の内容をもって現わされ得ることになるのである。
こんな理由だけからでも、映画によってすべての文字を駆逐することは出来そうもない。しかしまた同じ理由によって文字では到底勤まらない役目を映画によって仕遂げることが出来るのである。云うまでもなく、朝顔を見たことのないエスキモー土人に朝顔を説明するに百万言を費やすよりも写真か映画で一分間を費やした方が早分りである。一と口に云えば映画は観客の眼の代理者でありまたその案内者なのである。観客が到底行かれぬ場所へ観客の眼を連れて行って見せたいものを見せるのである。過去のある瞬間に世界のうちのある場所で起った出来事を映写器械のレンズで見た、その影像の写しをそのままに吾々の眼を通して直接に吾々の頭の中へ写し出すのである。
教育機関としての映画の役目は、このように観客の眼の「案内者」としての役目である。何を見るべきか、それを如何に見るべきかということを教えることである。教育映画としての優劣はこの案内の仕方の優劣次第できまるのである。ここに色々の問題が起って来るのである。
動物の生活を見せる映画について考えてみる。例えば動物園へ子供を連れて行って子供に実際の河馬《かば》を見せるのと優秀な教育映画の河馬を見せるのと、どう違うかという問題を考えてみる。ちょっと考えただけでは動物園の実物の方がよさそうに思われるであろうが、実は必ずしもそうでないのである。河馬と言うものの特徴を見せるために、その前後並びに側面から見た形、眼、耳、鼻
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