球根
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)堅吉《けんきち》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一度|紙屑籠《かみくずかご》へ

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(例)[#地から3字上げ](大正十年一月、改造)
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 九月中旬の事であった。ある日の昼ごろ堅吉《けんきち》の宅《うち》へ一封の小包郵便が届いた。大形の茶袋ぐらいの大きさと格好をした紙包みの上に、ボール紙の切れが縛りつけて、それにあて名が書いてあったが、差出人はだれだかわからなかった。つたない手跡に見覚えもなかった。紙包みを破って見ると、まだ新しい黄木綿《きもめん》の袋が出て来た。中にはどんぐりか椎《しい》の実《み》でもはいっているような触感があった。袋の口をあけてのぞいて見ると実際それくらいの大きさの何かの球根らしいものがいっぱいはいっている。一握り取り出して包み紙の上に並べて点検しながらも、これはなんだろうと考えていた。
 里芋の子のような肌合《はだあい》をしていたが、形はそれよりはもっと細長くとがっている。そして細かい棕櫚《しゅろ》の毛で編んだ帽子とでもいったようなものをかぶっている。指でつまむとその帽子がそのままですぽりと脱け落ちた。芋の横腹から突き出した子芋をつけているのもたくさんあった。
 子供らが見つけてやって来ていじり回した。一つ一つ「帽子」を脱ぎ取って縁側へ並べたり子芋の突起を鼻に見立てて真書《しんが》き筆でキューピーの顔をかき上げるものもあった。
 何か西洋草花の球根だろうと思ったが、なんだかまるで見当がつかなかった。彼はわざわざそれを持って台所で何かしている細君に見せに行ったが、そういう物にはさっぱり興味のない細君はろくによく見る事もしないで、「存じません」と言ったきり相手になってくれなかった。老母も奥の隠居部屋《いんきょべや》から出て来て、めがねでたんねんに検査してはいたが、結局だれにもなんだかわからなかった。
「ひょっとしたら私の病気にでもきくというのでだれかが送ってくれたのじゃないかしら、煎《せん》じてでも飲めというのじゃないかしら」こんな事も考えてみたりした。長い頑固《がんこ》な病気を持てあましている堅吉は、自分の身辺に起こるあらゆる出来事を知らず知らず自分の病気と関係させて考えるような習慣が生じていた。天性からも、また隠遁的《いんとんてき》な学者としての生活からも、元来イーゴイストである彼の小自我は、その上におおっている青白い病のヴェールを通して世界を見ていた。
 もっとも彼がこう思ったのはもう一つの理由があった。大学の二年から三年に移った夏休みに、呼吸器の病気を発見したために、まる一年休学して郷里の海岸に遊んでいたころ、その病気によくきくと言ってある親戚《しんせき》から笹百合《ささゆり》というものの球根を送ってくれた事があった。それを炮烙《ほうろく》で炒《い》ってお八つの代わりに食ったりした。それは百合《ゆり》のような鱗片《りんぺん》から成った球根ではあったが、大きさや格好は今度のと似たものであった。彼はその時分の事をいろいろ思い出していた。焦げた百合の香ばしいにおいや味も思い出したが、それよりもそれを炒ってくれた宿の人々の顔やまたそれに付きまとうた淡いロマンスなどもかなりにはっきりと思い出された。その時分の彼はたとえ少々の病気ぐらいにかかっても、前途の明るい希望を胸いっぱいにいだいていただけに悲観もしなければ別にあせりもしなかった。そして一年間の田舎《いなか》の生活をむしろ貪欲《どんよく》に享楽していた。それが今、中年を過ぎた生涯《しょうがい》の午後に、いつなおるかわからない頑固な胃病に苦しんでいる彼の心持ちは、だいぶちがったものであった……のみならず今度の病気は彼の外出を禁じてしまったので前の病気の時のように、自由に戸外の空気に触れて心を紛らす事ができない。使えば使われそうに思われるからだを、なるべく動かさないようにしていなければならないのが苦痛であった。それでもはたで見るほど退屈はしていなかった。彼の読書欲は病気になって以来いっそう増進して、ほとんど毎日朝起きるとから夜寝るまで何かしら読んでいた。そんなに本ばかり読んでいては病気にさわりはしないかと言って、細君や老母が心配して注意する事もあったが、彼自身にはそんな心配はないと言いはっていた。実際彼の頭脳は病気以来次第にさえて来て、終日読書していても少しも疲れないのみならず、自分でも不思議に思うほど鋭く働いていた。何か読んでもそこに書いてある事の裏の裏まで見通されるような気がしていた。読んで行く一行一行に、あらゆる暗示が伏兵のように隠れていて、それが読むに従って、飛び出して襲いかかるのであった。それら
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