辛《せちがら》さではどうなったかそれは知らない。とにかく日本などでは、まだなかなかそういう遠大な考えで学者の飼い殺しをする会社はそう多数にはあるまいと思われる。あるいはそこまでに学者の腕前に対する信用が高められないためかもしれない。そうだとすればその責任がどっちにどれだけあるか、それもよく分からない。しかし、いずれの場合にしても、例えばある会社の研究員が、その会社の商品の欠点を仔細に研究して、その結果からその商品の無価値あるいは有害なことを発見したとする。その際もしも、その研究員が、更に進んでその欠点を除去し、その商品を完成するように研究の歩を進めるならば結構であるが、そうでなくて、その欠点を委細構わず天下に発表して、その結果その会社に多大な損失をかけ、事によるとその会社の存在を危うくするような心配が生じたとする。その場合その研究員を免職させない会社があったら、それは記録に値いするであろうと思う。
 官営また私営の純粋な科学研究を目的とする研究所も少数にはある。そういう処は比較的最も自由な学者の楽天地である。しかしそういう処でも「絶対の自由」などという夢のようなものはおよそ有りそうもないようである。そういう理想郷の住民でも、時々は例えば研究の「合理化」といったような、考えようではむしろ甚だ不合理な呼び声にしばしば脅かされなければならないことがあるのもまた事実であり、現在の現象である。
 「環境」という方面から見た「研究の自由」に関する「事実」は、先ず大要以上のごときもののようである。
 また一方、研究者の内面生活の方面から見た「自由」はどうかと見ると、これは全く個人個人の問題で、一概に云われないようである。ちょっと外側から見ると恐ろしく窮屈そうに見えるような天地に居て、そうして実は、最も自由に天馬のごとく飛翔しているような人も稀にはあるようであり、一方ではまた、最も自由な大海に住みながら、求めて一塊の岩礁に膠着《こうちゃく》して常に不自由を喞《かこ》つ人も稀にはあることはあるように思われる。これも理窟ではなくてやはり事実であり学問の世界の現象である。
 科学者流にしか物事を考えることの出来ないものの眼から見ると以上のような事実だけは認められるが、さて、それが善いのか悪いのか、またそれをどうすればいいか、そういうことは一切分かりかねるのである。
 尤も、科学者も人間である以上は、いつもいつもこういう実験科学的な考え方ばかりしている訳にはゆかない。時には「希望」と「正義」とを混同することも免れない。そうして、その結果、色々面倒な葛藤の起ることも止むを得ないであろう。しかし、ともかくも、一度も科学者流にこういう風の考え方をしたことのない人もあるとしたら、そういう人にとっては、上記のような半面的な見方の可能だという事実が、あるいは何かの参考になるかもしれないと思うのである。
[#地から1字上げ](昭和八年九月『鉄塔』)



底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
   1997(平成9)年4月4日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「鉄塔」
   1933(昭和8)年9月1日
※初出時の署名は「尾野倶郎」です。
入力:Nana ohbe
校正:青野 弘美
2006年10月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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