学問の自由
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)纏《まと》まり

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(例)[#地から1字上げ](昭和八年九月『鉄塔』)
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 学問の研究は絶対自由でありたい。これはあらゆる学者の「希望」である。しかし、一体そういう自由がこの世に有り得るものか、どの程度までそれが可能であるか、またその可能限度まで自由を許すことが、当該学者以外の多数の人間にとって果していつでも望ましい事であるか。こういう問題を、少し立入って考究し論議するとなると、事柄は存外複雑になって来て、おそらく、そうそう簡単には片付けられないことになるであろう。あるいは結局いつまで論議しても纏《まと》まりの付かないような高次元の迷路をぐるぐる廻るようなことになるかもしれない。
 こういう疑いは、問題の学問が、複雑極まる社会人間に関する場合に最も濃厚であるが、しかし、外見上人間ばなれのした単なる自然科学の研究についても、やはり起こし得られる疑問である。
 科学者自身が、もしもかなりな資産家であって、そうして自分で思うままの設備を具えた個人研究所を建てて、その中で純粋な自然科学的研究に没頭するという場合は、おそらく比較的に一番広い自由を享有し得るであろう。尤も、そういう場合でも、同学者の間にはきっと、あの設備があるのに、あんな事ばかりやっている、といったような批評をするものの二、三人は必ずあるであろうが、そういう批評が耳に這入《はい》ったときに心を動かさないだけの「心の自由」がありさえすれば、何でもない。しかし、そういう恵まれた環境にめぐり遭う学者は稀である。たまたまそういう環境を恵まれた人にはまた存外そういう研究に熱心な人が稀である。それで、大多数の科学者は結局どこかで誰か他人の助けをかりて生活すると同時に研究する外はない。それで、国家なり個人なりが一人の学者に生活の保障と豊富な研究費を与えてくれて、そうして好きな事を勝手に研究させてくれればこれほど結構なことはないが、そういう理想的な場合が事実上存在するかどうかを考えてみる。
 ちょっと考えると、大学教授などというものは、正しくそういう立場にありそうに見えるが、事実は必ずしもそうでない。第一、教授の職責の大きな部分は学生を教える事である。それから色々な事務がある。時には会計官吏や書記や小使の用をつとめなければならない。好きな研究に没頭する時間を拾い出すのはなかなか容易でないのである。その上に肝心な研究費はいつでも蟻《あり》の涙くらいしか割当てられない。その苦しい世帯を遣《や》り繰《く》りして、許された時間と経費の範囲内で研究するにしても、場合によってはまた色々意外な拘束の起ることが可能である。例えば若い教授または助教授が研究している研究題目あるいは研究の仕振りが先輩教授から見て甚だ凡庸あるいは拙劣あるいは不都合に「見える」場合には、自然に且つ多くの場合に当事者の無意識の間に、色々の拘束障害が発生して来て、その研究は結局中止するか、あるいは研究者がそこを去る外はないようになることもないとは云われない。環境に適しないものの生存が自然に沮止《そし》されるのはこのような場合でもやはり天然界におけると同様である。
 官庁内の一部に設けられた研究室の中で仕事をしている科学者は最も不自由な環境に置かれている。研究題目は上長官の命令で決まっており、その上に始めから日限つきでその日までにはどうでも目鼻をつけなければならないこともある。実におそらく最も不自由な場合であるが、面白いことには、学者によってはこの狭い天地の中でさも愉快そうに自由自在に活動して立派な成果を収めて人を驚かすことがあるようである。一皿の水を化して大海とするのである。
 政府の所属で、各種科学の特殊な専門的題目の研究所として看板をかけた処では、比較的にいくらか自由である。しかし、例えば蚯蚓《みみず》の研究所で鯨の研究をやりたいといったような場合には、ともかくも一応上長官の諒解を得るために、その研究の結果がその研究の目的に直接適合する所以《ゆえん》を説明して許可を得るのが穏当である。上長官がよほどの人でない限りあまり勝手な事は許されないであろう。これも理屈はともかくこの世の事実である。
 営利会社の内部に設けられた研究室の研究員も、大体において、その会社に有利な結果の出そうな研究をするのが普通である。尤も、大戦前のドイツのある化学工業会社などでは、常に数十人の学者を養って、それに全く気儘な研究をさせたという話である。五十人の研究の中でただの一つでも有利な結果が飛び出せば、それから得られる利益で、学者の五十人くらい一生飼い殺しにしても、なお多大の収益があるからとのことであった。戦後の世智
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