の海水浴が保健の一法として広く民間に行われていたことがこれで分るのである。
明治二十六、七年頃自分の中学時代にはそろそろ「海水浴」というものが郷里の田舎でも流行《はや》り出していたように思われる。いちばん最初のいわゆる「海水浴」にはやはり父に連れられて高知|浦戸湾《うらどわん》の入口に臨む種崎《たねざき》の浜に間借りをして出かけた。以前に宅《うち》に奉公していた女中の家だったか、あるいはその親類の家だったような気がする。夕方この地方には名物の夕凪《ゆうなぎ》の時刻に門内の広い空地の真中へ縁台のようなものを据えてそこで夕飯を食った。その時宅から持って行った葡萄酒やベルモットを試みに女中の親父に飲ませたら、こんな珍しい酒は生れて始めてだと云ってたいそう喜んだが、しかしよほど変な味がするらしく小首を傾けながら怪訝《けげん》な顔をして飲んでいた。そうして、そのあとでやっぱり日本酒の方がいいと云って本音《ほんね》をはいたので大笑いになったことを覚えている。
自分もその海水浴のときに「玉ラムネ」という生れて始めてのものを飲んで新しい感覚の世界を経験したのはよかったが、井戸端の水甕《みずがめ》に
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