がある。鍔広《つばびろ》の藁帽を阿弥陀に冠《かぶ》ってあちら向いて左の手で欄《てすり》の横木を押さえている。矢絣《やがすり》らしい着物に扱帯《しごきおび》を巻いた端を後ろに垂らしている、その帯だけを赤鉛筆で塗ってある。そうした、今から見れば古典的な姿が当時の大学生には世にもモダーンなシックなものに見えたのであろう、小杉天外の『魔風恋風』が若い人々の世界を風靡《ふうび》していた時代のことである。
 大正の初年頃|外房州《そとぼうしゅう》の海岸へ家族づれで海水浴に出かけたら七月中雨ばかり降って海にはいるような日がほとんどなく、子供の一人が腸を悪くして熱を出したりした。宿の主人は潜水業者であったが、ある日潜水から上がると身体中が痺《しび》れて動けなくなったので、それを治すためにもう一遍潜水服を着せて海へ沈めたりしたが、とうとうそれっきりになってしまった。自分等は離屋《はなれ》にいたのでその騒ぎを翌日まで知らなかった。その二、三日前の夜にその主人が話しに来たとき自分も二十余年前の父の真似をして有り合せのベルモットか何かを飲ませたら、この男もやはりこんな酒は始めてだと云って喜んで飲んだ。多分たった一杯飲んだだけであったが、しかしその馴れない酒を飲んだという事と、間もなく潜水者病に罹ったこととの間に何かしら科学的に説明出来るような関係があったのではないかというような気がして、妙に不安な暗い影のようなものが頭につきまとって困った。何かの因縁が二十年前とつながっているような気もした。それがちょうど中元の頃で、この土地の人々は昔からの風習に従って家々で草を束ねた馬の形をこしらえ、それを水辺に持出しておいてから、そこいらの草を刈ってそれをその馬に喰わせる真似をしたりしていた。この草で作った馬の印象が妙になまなましく自分のこの悪夢のような不安と結びついて記憶に残っているのである。それから間もなく東京に残っていた母が病気になったので皆で引上げて帰って来る、その汽車の途中から天気が珍しく憎らしく快晴になって、それからはもうずっと美しい海水浴日和がつづいたのであった。この一と夏の海水浴の不首尾は実に人生そのものの不首尾不如意の縮図のごときものであった。
 それから後にも家族連れの海水浴にはとかく色々の災難が附纏《つきまと》ったような気がする。そのうちにまた自分が病気をしてうっかり海水浴の出来な
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