行くのには乗合の屋形船で潮時でも悪いと三、四時間もかかったような気がする。現在の東京の子供なら静岡か浜松か軽井沢へでも行っていたのと相当する訳である。交通速度の標準が変ると距離の尺度と時間の尺度とがまるきり喰いちがってしまうのである。
 その頃にもよく浜で溺死者があった。当時の政客で○○○議長もしたことのあるK氏の夫人とその同伴者が波打際に坐り込んで砂浜を這上《はいあ》がる波頭に浴しているうちに大きな浪が来て、その引返す強い流れに引きずり落され急斜面の深みに陥って溺死した。名士の家族であっただけにそのニュースは郷里の狭い世界の耳目《じもく》を聳動《しょうどう》した。現代の海水浴場のように浜辺の人目が多かったら、こんな間違いはめったに起らなかったであろうと思われる。
 溺死者の屍体が二、三日もたって上がると、からだ中に黄螺《ばい》が附いて喰い散らしていて眼もあてられないという話を聞いて怖気《おじけ》をふるったことであった。
 海水着などというものはもちろんなかった。男子はアダム以前の丸裸、婦人は浴衣《ゆかた》の紐帯《ひもおび》であったと思う。海岸に売店一つなく、太平洋の真中から吹いて来る無垢《むく》の潮風がいきなり松林に吹き込んでこぼれ落ちる針葉の雨に山蟻《やまあり》を驚かせていた。
 明治三十五年の夏の末頃|逗子《ずし》鎌倉へ遊びに行ったときのスケッチブックが今|手許《てもと》に残っている。いろいろないたずら書きの中に『明星』ばりの幼稚な感傷的な歌がいくつか並んでいる。こういう歌はもう二度と作れそうもない。当時二十五歳大学の三年生になったばかりの自分であったのである。
 たしかその時のことである。江の島の金亀楼で一晩泊った。島中を歩き廻って宿へ帰ったら番頭がやって来て何か事々しく言訳をする。よく聞いてみると、当時高名であった強盗犯人山辺音槌とかいう男が江の島へ来ているという情報があったので警官がやって来て宿泊人を一々見て歩き留守中の客の荷物を調べたりしたというのである。強盗犯人の嫌疑候補者の仲間入りをしたのは前後にこの一度限りであった。
「藤沢江の島間電車九月一日開通、衝突脱線等あり、負傷者数名を出す」という文句の脇に「藤沢停車場前角若松の二階より」とした実に下手な鉛筆のスケッチがある。
 逗子養神亭から見た向う岸の低い木柵に凭《もた》れている若い女の後姿のスケッチ
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