ィもずいぶんあるだろうと思うが、だれかえらい人のそういう著書があれば読んでみたいものである、ついでに「おとなのおもちゃ」にまでも論及したのであればなおさらおもしろく有益であろう。
六階で以前のままなものは花卉《かき》盆栽を並べた温室である。自分は三越へ来てこの室を見舞わぬ事はめったにない。いつでも何かしら美しい花が見られる。宅《うち》の庭には何もなくなった霜枯れ時分にここへ来ると生まれかわったようにいい心持ちがする。一階から五階までありとあらゆる人工的商品をこまごま見せられて疲れかわいた目には特にこれらの草花が美しく見える。花ばかりでなくいろいろ美しい熱帯の観葉植物の燃えるような紅や、けがれのない緑の色や、典雅な形態を見ればたれしも蘇生《そせい》するここちのしない人はあるまい。そしてこのわれわれの衣食住の必要品やぜいたく品を所狭くわずらわしく置きならべた五層楼の屋上にこの小楽園を設くる事を忘れなかった経営者に対してたとえ無自覚にしろ一片の感謝を表しない人はないであろうと思う。
しかしこのごろだんだんいろいろの人に聞いてみると、中にはあの温室へはいると気持ちがわるくなるという人もあった、花だって貧弱なのばかりじゃないかと言った人もある。
丸善から三越へ回って帰る時には、たいていいつも日本銀行まで歩いてそこから外濠線《そとぼりせん》に乗る。どうかして電車がしばらく来ない時には、河岸《かし》の砂利置場《じゃりおきば》へはいってお堀《ほり》の水をながめたり呉服橋《ごふくばし》を通る電車の倒影を見送ったりする。丸善の二階で得たいろいろな印象や、三越で受けたさまざまな刺激がこの河岸の風に吹かれて緊張のゆるんだ時に、いろいろの変わった形や響きになって意識の上に浮かび上がって来る。かねてから考えている著書を早く書き初めなければならぬと思う事もある。あるいは郷里の不幸や親戚《しんせき》に無沙汰《ぶさた》をしている事を思い出す事もある。
しかしまた時として向こう河岸《がし》にもやっている荷物船から三菱《みつびし》の倉庫へ荷上げをしている人足の機械的に動くのを見たり、船頭の女房が艫《とも》で菜の葉を刻んだり洗ったりするのを見たり、あるいは若芽を吹いた柳の風にゆらぐのを見たりしていると、丸善だとか三越だとかいうものが世にもつまらない無用の長物だという気がする時もある。
電車に乗って帰って宅《うち》の門をくぐると、もうこんな事はすっかり忘れてしまって、それで自分の日曜日、あるいは日曜日の自分は消えてしまうのである。
[#地から3字上げ](大正九年六月、中央公論)
底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
1997(平成9)年12月15日第81刷発行
入力:田辺浩昭
校正:かとうかおり
2003年5月20日作成
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