いばって買って行く人もある。ともかくもここには人間の好意が不思議な天秤《てんびん》にかけられて、まず金に換算され、次に切手に両替えされる、現代の文化が発明した最も巧妙な機関がすえられてある。この切手を試みに人に送ると、反響のように速《すみ》やかに、反響のように弱められて返って来る。田舎《いなか》から出て来た自分の母は「東京の人に物を贈ると、まるで狐《きつね》を打つように返して来るよ」といって驚いた。これに関する例のP君の説はやはり変わっている。「切手は好意の代表物である。しかしその好意というのは、かなり多くの場合に、自己の虚栄心を満足するために相手の虚栄心を傷つけるという事になる。それで敵から砲弾を見舞われて黙っていられないと同様に、侮辱に対して侮辱を贈り返すのである。速射砲や機関銃が必要であると同様に、切手は最も必要な利器である。」いかにもP君の言いそうな事ではあるが、もしやこれがいくぶんでも真実だとしたら、それはなんという情けない事実だろう。
 一階から二階へ人を運ぶためにエスカレーターを運転している時がある。ある人は間違えてこれをライスカレーといった。これはあまり気持ちのいい物ではない。あの手すりの上をすべって行くゴムの帯もなんだか蛇《へび》のようで気味が悪いと言った人もある。自分はある日ここで妙な連想を起こした事がある。自分の子供を小学校へ入れてやると、いつのまにか文字を覚える算術を覚える、六年ぐらいはまたたくまにたって、子供はいつのまにかひとかど小さい学者になっている、実にありがたいものだと思わないではいられない。ちょうどエスカレーターの最下段に押して入れてやれば、あとはひとりで、少なくも二階までは持って行ってくれるのと同じようなものである。このごろは中学や高等学校の入学がだいぶ困難になって来たが、それでも一度入学さえすればとにかく無事にせり上がって行くのが通例である。これから見ると、昔の人は、不完全な寺子屋の階段を手を引いてもらってやっと上がると、それから先は自分で階段を刻んだり、蔓《つる》にすがって絶壁をよじるような思いをしなければならなかった。それで大概の人は途中で思い切ってしまっただろうが、登りつめた人の腕や足は鉄のようにきたえられたに相違ない。
 三越の商品のおもなるものはなんと言っても呉服物である。こういう物に対する好尚《こうしょう》と知識のきわめて少ない自分は、反物や帯地やえりの所を長い時間引き回されるのはかなりに迷惑である。そしてこれほどまでに呉服というものが人間に必要なものかと思って、驚き怪しんだ事も一度や二度ではない。「東京の人は衣服を食っているか」と言った田舎《いなか》のある老人の奇矯《ききょう》な言葉が思い出される。
 何番という番号のついた売り場に妻子をつれて買い物に来ている人が幾組もある。細君の品物を選《よ》り分ける顔つきや挙動や、それを黙って見ている主人の表情はさまざまである。いろいろな家庭の一面がここに反映している。いわゆる写実小説を見るよりはこのほうがはるかに興味があり、ためになる。同じ陳列台の前を行ったり来たりしている女の顔には、どうかすると迷いや悶《もだ》えやの気の毒な表情がありあり読まれる事もある。
 婦人の美服に対する欲望は、通例虚栄心という簡単な言葉で説明されているようである。かつて何かの雑誌で「万引きの心理」という題目で大いに論じたものを読んだ事がある、その中にもこの虚栄心の事がたいそう長たらしく書いてあったように記憶している。それを見ても通例女の虚栄心というものは、人間のあらゆる本質的欲求の団塊の、ほんの表面の薄膜に生ずる黴《かび》ぐらいのもののように取り扱われているようであるが、はたしてそんなものだろうか。このような婦人が、美服に対した時に、あらゆる理知の束縛を忘れ、当然な因果を考える暇もなく、盗賊の所行をあえてするようになる衝動はそれはど浅薄な不まじめなものばかりとも思われない。その衝動の背後には、卑近な物質的の欲望のほかに、存外広い意味において道徳的な理想に対する熱烈な憧憬《どうけい》が含まれているかもしれない。もしたとえば社会の組織制度に関するある理想に心酔して、それがために奪い殺し傷つける事をあえてする団体があるとすれば、どこかそれと共通な点がないでもない。この婦人の行為は利己的である、社会的理想はそんなものと根本的にちがっていると一口に言ってしまってもいいものだろうか。いったい普通に使われる利己と利他という二つの言葉ほど無意味な言葉は少ない。元来無いものに付せられた空虚な言葉であるか、さもなければ同じ物の別名である。ただ人を非難したり弁護したりする時や、あるいは金を集めたり出したりする時に使い分けて便利なものだからだれでも日常使ってはいるが、今自分の言っているような根本の問題にはなんの役にも立たないものである。だれかこの疑問に対して自分のふに落ちるような解釈をしてくれる人はないものだろうか。たとえばいわゆる共産主義を論じる学者たちが現在の社会に行なわれているこの万引きというものをいかに取り扱うかが聞きたいものである。
 三越へ来て、数千円の帯地や数百円の指輪を見たり、あるいは万引きの事を考えたりしているとだれかが言った寝言のようななぞのような言葉に、多少の意味があるような気がする。「富む事は美徳である。富者はその美徳をあまり多く享有する事の罪を自覚するがゆえに、その贖罪《しょくざい》のために種々の痴呆《ちほう》を敢行して安心を求めんとする。貧乏は悪徳である、貧者はその自覚の抑圧に苦しみ、富の美徳を獲得せんと焦慮するために働きあるいは盗み奪う……」
 呉服の地質の種類や品位については全く無知識な自分も、染織の色彩や図案に対しては多少の興味がある。それで注意して見ると、近ごろ特に欧州大戦が始まって後に、三越などで見かける染物の色彩が妙に変わって来たような気がする。ある人は近ごろはこんな色が流行すると言った。しかしある人はまた戦争のために染料が欠乏したからよんどころなくあんな物ばかり製造しているのだとも言った。もしこの二人のいう事がどちらもほんとうであるとすると、われわれの趣味や好尚《こうしょう》は存外外面的な事情によって自由に簡単に支配されうるものだと思う。もし試みに十年ぐらいの期間でもいいから、あらゆる染料の製造と販売と使用を停止してみたら、われわれの社会的生活にどんな影響が生じるだろう。実行はむつかしいが、こういう仮設を前提として一つの思考実験を行なってみる事は、はなはだおもしろくもあり有益でありはしまいか。もっともそんな事はもう社会学者や経済学者たちがとうの昔にやってやり古した事かもしれない。たぶんそうだろうと思われる。そうでなくては成り立ちそうもない学説やイズムがわれわれの目に触れるほどだから。
 三越の四階に食堂がある、たしか以前は小さな室であったのが、その後拡張されて今のような大きな部屋《へや》になったと思う。ちょっと清潔に簡便に食欲を満足させ、そうして時間をつぶすに適当なようにできている。普通の日本人の食事時間でない時でも不断ににぎわっている。草花鉢《くさばなばち》を飾ったり、夏は花を封じ込めた氷塊がいくつもすえられていて、天井には大きな扇風器が回っている。田舎《いなか》から始めて来た人などに、ここで汁粉《しるこ》かアイス一杯でもふるまうと意外な満足を表せられる事がある。ここの食卓へ座をとって、周囲の人たち、特に婦人の物を食っているさまを見ると一種の愉快な心持ちになって来る。ある人のいうようにあさましいなどという感じは自分には起こらない。呉服売場や陳列棚《ちんれつだな》の前で見るような恐ろしい険しい顔はあまりなくって、非常に人間らしい親しみのある顔が大部分を占めている。この食堂を発案したのはだれだか知らないが、その人はいろいろな意味でえらい人のように思われる。
 食堂のほかには食品を販売する部が階下にある。人によると近所の店屋で得られると同じ罐詰《かんづめ》などを、わざわざここまで買いに来るということである。買い物という行為を単に物質的にのみ解釈して、こういう人を一概に愚弄《ぐろう》する人があるが、自分はそれは少し無理だと思っている。
 ベルリンのカウフハウスでは穀類や生魚を売っていた、ロンドンの三越のような家では犬や猿《さる》や小鳥の生きたのを売っていた。生魚はすぐ隣に魚河岸《うおがし》があるからいいが、しかし三越でも猫《ねこ》や小猿やカナリヤを販売したらおもしろいかもしれない。少なくも子供たちに対する誘惑を無害な方面に転じる事になるだろうし、おとなに対しても三越というものの観念に一つの新しい道徳的な隈取《くまど》りを与えはしまいか。生き物だから飼っておくのはめんどうだろうが。
「三越に大概な物はあるが、日本刀とピストルがない」と何かの機会にたいへん興奮してP君が言った事がある。「帯刀の廃止、決闘の禁制が生んだ近代人の特典は、なんらの罰なしに自分の気に入らない人に不当な侮辱を与えうる事である。愚弄に報ゆるに愚弄をもってし、当てこすりに答えるに当てこすりをもってする事のできる場合には用はないが、無言な正義が饒舌《じょうぜつ》な機知に富んだ不正に愚弄される場合の審判者としてこの二つの品が必要である。」これには自分はだいぶ異論があったように記憶する。しかしその時自分の言った事は忘れてただP君のこの言葉のみが記憶に残っている。
 五階には時々各種の美術展覧会が催される、今の美術界の趨勢《すうせい》は帝展や院展を見なくてもいくぶんはここだけでもうかがわれる、のみならずそういう大きな展覧会に出ない人たちの作品まで見られる便利がある、そして入場は無料である。
 ここではまたいろいろの新美術品が陳列されている。陶磁器漆器鋳物その他大概のものはある。ここも今代の工芸美術の標本でありまた一般の趣味|好尚《こうしょう》の代表である。なんでもどちらかと言えばあらのない、すべっこい無疵《むきず》なものばかりである。いつかここでたいへんおもしろいと思う花瓶《かびん》を見つけてついでのあるたびにのぞいて見た。それは少し薄ぎたないようなものであったせいか、長い間買い手もつかずそこに陳列されていた。これと始めのうちに同居していたたくさんの花瓶はだんだんに入り代わって行くのに、これだけは木守りの渋柿《しぶがき》のように残っていた。ところがこのあいだ行って見ると、もうこの自分の好きな花瓶も見えなくなっていた。なんだかやっと安心したような気がしたがはたして売れたのか、あるいはあまり売れないのでどうにか処分されたのか、それもわからないと思った。
 六階にあったいわゆる空中庭園は、近ごろ取り払われて、今ではおもちゃの陳列所になっている。一階から五階までの間に群がっているたくさんの人の皮膚や口から出るいろいろのなまぬるいガスがここまで登りつめたのを、上からふたをしてしまったせいか、ここへ来ると空気が悪くて長くいるとこれが頭にきいて来る。そのせいでもあるまいが自分はここにあるおもちゃに対してあまりいい気持ちはしない。たとえばセルロイドで作ったキューピーなどのてかてかした肌合《はだあい》や、ブリキ細工の汽車や自動車などを見てもなんだか心持ちが悪い。それでも年に一度ぐらいは自分の子供らにこんなおもちゃを奮発して買ってやらないわけではない。おもちゃその物の効果については時々教育家や心理学者の講話を新聞や雑誌で読んでみるが、具体的に何商店のどのおもちゃがいいという事を教えてくれないのは物足りない。実際買おうと思って見渡す時に、自分が安心してこれならと思う品がまことに少ない。こんな親父《おやじ》を持った子供らは不仕合わせでないかと思う事もある。自分の子供の時代に田舎《いなか》でもてあそんだ自然界のおもちゃには充分な自信をもって子供らに与えたいと思うものがたくさんあるが、この三越にあるようなおもちゃについては、悲しい事に積極的にも消極的にも自信がない。おもちゃというものに関して書いた書
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