与えた事も思い出される。あのころには書物の値段は正札でなく一種の符徴でしるしてあった。もっともその符徴はたいていだれでも知っていたので、秘密の暗号でもなんでもなくただ数字の代わりにかたかなを使ったというだけのものであった。たとえばアンカナというのは一円二十五銭の事であったが、これが自分の頭によく残っている。イタリアの地名のようだと思った事があるからそのせいだか、あるいはこの符号のついた本を比較的に多く買ったためだか、とにかくこのアンカナの四字が丸善その物の象徴のように自分の脳髄のすみのほうに刻みつけられている。
昔の丸善の旧式なお店《たな》ふうの建物が改築されて今の堂々たる赤煉瓦《あかれんが》に変わったのはいつごろであったか思い出せない。たぶん自分が二年ばかり東京にいなかった間の事であろうと思う。元の薄暗い窮屈な室《へや》に比べて、天井の高い窓の多い今の二階の室は比較にならないほど明るく気持ちがいい。しかし自分にはどういうものか昔の陰気なほうが、少なくも自分の頭に巣くっている「丸善」という観念にはふさわしい。今の室はあまりに明るくあまりに楽に広々としているためにそこに陳列された書物が
前へ
次へ
全33ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング