烽キえられていて、天井には大きな扇風器が回っている。田舎《いなか》から始めて来た人などに、ここで汁粉《しるこ》かアイス一杯でもふるまうと意外な満足を表せられる事がある。ここの食卓へ座をとって、周囲の人たち、特に婦人の物を食っているさまを見ると一種の愉快な心持ちになって来る。ある人のいうようにあさましいなどという感じは自分には起こらない。呉服売場や陳列棚《ちんれつだな》の前で見るような恐ろしい険しい顔はあまりなくって、非常に人間らしい親しみのある顔が大部分を占めている。この食堂を発案したのはだれだか知らないが、その人はいろいろな意味でえらい人のように思われる。
食堂のほかには食品を販売する部が階下にある。人によると近所の店屋で得られると同じ罐詰《かんづめ》などを、わざわざここまで買いに来るということである。買い物という行為を単に物質的にのみ解釈して、こういう人を一概に愚弄《ぐろう》する人があるが、自分はそれは少し無理だと思っている。
ベルリンのカウフハウスでは穀類や生魚を売っていた、ロンドンの三越のような家では犬や猿《さる》や小鳥の生きたのを売っていた。生魚はすぐ隣に魚河岸《うおがし》があるからいいが、しかし三越でも猫《ねこ》や小猿やカナリヤを販売したらおもしろいかもしれない。少なくも子供たちに対する誘惑を無害な方面に転じる事になるだろうし、おとなに対しても三越というものの観念に一つの新しい道徳的な隈取《くまど》りを与えはしまいか。生き物だから飼っておくのはめんどうだろうが。
「三越に大概な物はあるが、日本刀とピストルがない」と何かの機会にたいへん興奮してP君が言った事がある。「帯刀の廃止、決闘の禁制が生んだ近代人の特典は、なんらの罰なしに自分の気に入らない人に不当な侮辱を与えうる事である。愚弄に報ゆるに愚弄をもってし、当てこすりに答えるに当てこすりをもってする事のできる場合には用はないが、無言な正義が饒舌《じょうぜつ》な機知に富んだ不正に愚弄される場合の審判者としてこの二つの品が必要である。」これには自分はだいぶ異論があったように記憶する。しかしその時自分の言った事は忘れてただP君のこの言葉のみが記憶に残っている。
五階には時々各種の美術展覧会が催される、今の美術界の趨勢《すうせい》は帝展や院展を見なくてもいくぶんはここだけでもうかがわれる、のみならずそういう
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