ォわめて少ない自分は、反物や帯地やえりの所を長い時間引き回されるのはかなりに迷惑である。そしてこれほどまでに呉服というものが人間に必要なものかと思って、驚き怪しんだ事も一度や二度ではない。「東京の人は衣服を食っているか」と言った田舎《いなか》のある老人の奇矯《ききょう》な言葉が思い出される。
何番という番号のついた売り場に妻子をつれて買い物に来ている人が幾組もある。細君の品物を選《よ》り分ける顔つきや挙動や、それを黙って見ている主人の表情はさまざまである。いろいろな家庭の一面がここに反映している。いわゆる写実小説を見るよりはこのほうがはるかに興味があり、ためになる。同じ陳列台の前を行ったり来たりしている女の顔には、どうかすると迷いや悶《もだ》えやの気の毒な表情がありあり読まれる事もある。
婦人の美服に対する欲望は、通例虚栄心という簡単な言葉で説明されているようである。かつて何かの雑誌で「万引きの心理」という題目で大いに論じたものを読んだ事がある、その中にもこの虚栄心の事がたいそう長たらしく書いてあったように記憶している。それを見ても通例女の虚栄心というものは、人間のあらゆる本質的欲求の団塊の、ほんの表面の薄膜に生ずる黴《かび》ぐらいのもののように取り扱われているようであるが、はたしてそんなものだろうか。このような婦人が、美服に対した時に、あらゆる理知の束縛を忘れ、当然な因果を考える暇もなく、盗賊の所行をあえてするようになる衝動はそれはど浅薄な不まじめなものばかりとも思われない。その衝動の背後には、卑近な物質的の欲望のほかに、存外広い意味において道徳的な理想に対する熱烈な憧憬《どうけい》が含まれているかもしれない。もしたとえば社会の組織制度に関するある理想に心酔して、それがために奪い殺し傷つける事をあえてする団体があるとすれば、どこかそれと共通な点がないでもない。この婦人の行為は利己的である、社会的理想はそんなものと根本的にちがっていると一口に言ってしまってもいいものだろうか。いったい普通に使われる利己と利他という二つの言葉ほど無意味な言葉は少ない。元来無いものに付せられた空虚な言葉であるか、さもなければ同じ物の別名である。ただ人を非難したり弁護したりする時や、あるいは金を集めたり出したりする時に使い分けて便利なものだからだれでも日常使ってはいるが、今自分の言って
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