君を思い出すのである。P君はこれらの言語を見るか聞くか――特にある人たちの口からこれを聞く場合には反射的に直ちに非常に醜悪な罪とけがれを連想するそうである。自分は充分にその異常《アブノーマル》な心持ちをくみとる事はできないが、ただ昔の宗教革命者などという人の内には存外P君のような型の人があったのではないかという気がしているだけである。
 この書棚の次には美術に関した書物がある。たいてい版が大きくて値段も高い。自分はここへ来た時によく余分な銭がほしいと思う事がある。この棚の前には安い小さい美術書を並べた台がある。ここで自分は時々買い物をするが、そのたびにいつでも店員の中のあるものが一種の疑いの目をもって自分を注目しているような気がしたり、あるいは自分の美術に対する嗜好《しこう》に同情をもっていないらしいある人たちのだれかが、不意に自分の肩をたたいて「相変わらずやってるね」とあびせかけられはしないかという気がする。いつかクルイクシャンクの評伝を買った時に、そばに立っていた年少の店員が「クルイクシャンク/\」と言ってクスクス笑った。その時自分はなぜか顔面が急にほてるような気がした。この少年はたぶんこの画家の名前がおかしいから笑っただけだろうが、自分はあの時どうしてあんな気がしたのだろう。こんな感じのする人はほかには少ないかもしれない。しかしよく考えてみると、自分は自分の手近な「義務」とあまり直接の関係のないあらゆる享楽を味わう時には、たとえその事自身が卑近な感覚的なものでなくてもなんだか一種の不安を感じる場合が多い。いつか田舎《いなか》から出て来た親戚《しんせき》の老婦人を帝劇へ案内して菊五郎《きくごろう》と三津五郎《みつごろう》の舞踊を見せた時に、その婦人が「あまりおもしろくて、見ているうちに、私はこんなにおもしろくてもいいのかしらんと思って、なんだかそら恐ろしくなりました」と言った。この婦人はずいぶん人生の不幸をなめ尽くしたような人であったから、特にそう思われたのかもしれない。しかしこの一例から考えても、同じような経験は存外多くの人に共通なものかもしれない。ウィリアム・ジェームスの心理学の中に「音楽の享楽にふける事でさえも、その人が自分で演奏者であるか、あるいはその音楽を純理知的に受け入れるほどに音楽的の天賦を有するのでなければ、その人の人格をゆるめ弱めるという結果を
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