ある。
 至芸となると、演技者の自信が演技者を抜け出して観客の中へ乗り移ってしまう。エノケンもそれまでにはだいぶ距離がある。
 二村《ふたむら》は両立する存在ではなくて従属し補充するだけの役目をしているようである。[#地から1字上げ](昭和九年六月、渋柿)
[#改ページ]

   星野温泉より


 一年ぶりに星野温泉に来て去年と同じ家に落ち付いてみると、去年の夏と今年の夏との間に一年もたったという気がどうしてもしない。ほんの一週間ぐらい東京へ帰ってまた出て来たような気がする。もっともこれは、去年帰るときに子供らをのこして帰り、今年は先に子供らをよこしてあったので往き帰りの引っ越し騒ぎに関与しなかったからでもあるらしい。
 しかし、なんだか、東京にいる間は「星野の自分」が眠っていてその間は「東京の自分」が活動しており、星野へ来るとはじめて「星野の自分」が眼を覚まして活動しだしたといったような気もする。
 軽微なる二重人格症の症状とも言われるかもしれない。しかし、たとえばいろいろな月給生活者でも、勤め先における自分の生活と家庭における生活とはやはりある程度までは別の世界であり、その二つの世界ではやはりそれぞれ二つの別の自分があるのでははいかという気もする。[#地から1字上げ](昭和九年八月、渋柿)
[#改ページ]

   曙町より(二十一)


 昭和九年八月十五日は浅間山火山観測所の創立記念日で、東京の大学地震研究所員数名が峯の茶屋の観測所に集合して附近の見学をした。翌十六日は一行の中の、石本《いしもと》所長と松沢《まつざわ》山口《やまぐち》両氏ならびに観測所主任の水上《みなかみ》氏と四人が浅間に登山したが、自分と坪井《つぼい》氏とは登らなかった。石本松沢山口三氏はその日二時十五分|沓掛《くつかけ》発の列車で帰京し坪井氏は三時五十三分で立ち、自分だけ星野温泉に居残った。
 翌日の東京朝日新聞長野版を見ると、石本坪井両氏と寺田が登山し三人とも二時十五分の汽車で帰京したことになっていた。
 その後、九月五日にまた星野温泉へ行って七日に帰京したのであるが、九月十三日の某新聞消息欄を見ると、吉村冬彦が軽井沢から帰京したことになっている。
 これらの記事は事実の報道としてはみんな途方もないうそである。しかしこれをジャーナリズムの中にある「俳諧」と思って見れば別にたいした不都合はないかもしれない。うその中の真実が真実の真実よりもより多く真実なのかもしれないからである。[#地から1字上げ](昭和九年十月、渋柿)
[#改ページ]

   曙町より(二十二)


 越後のある小都会の未知の人から色紙《しきし》だったか絹地だったか送って来て、何かその人の家のあるめでたい機会を記念するために張り交ぜを作るから何か揮毫《きごう》して送れ、という注文を受けたことがあった。ただし、急ぐからおよそ何日ごろまでに届くように、という細かい克明な注意まで書き添えてあった。
 そのままにして忘れていたらやがて催促状が来て、もし「いやならいやでよろしく」それなら送った品を返送せよというのであった。それでびっくりしてさっそく返送の手続きをとったことであった。
 それから数年たった近ごろ、また同じ人からはがき大の色紙を二、三枚よこして、これに何か書いてよこせ、「大切に保存するから」と言って来た。
 ちょっと日本人ばなれがしている。アメリカのウォール街あたりの人のように実にきびきびと物事をビジネス的に処理する人らしく思われる。
 ただ、こういう気質の人のもつ世界と自分らの考えている俳句の世界とがどういうふうにつながり、どういうぐあいに重なり合っているかという事がちょっと不思議に思われたのであった。
 今度は催促されないように折り返し色紙を返送した。[#地から1字上げ](昭和九年十二月、渋柿)
[#改ページ]

   曙町より(二十三)


 安倍能成《あべよししげ》君が「京城《けいじょう》より」の中で「人柱《ひとばしら》」ということが西洋にもあったかどうかという疑問を出したことがあった。近ごろルキウス・アンネウス・フロルスの「ローマ史摘要」を見ていたら、ロムルスがその新都市に胸壁を築いたとき、彼と双生児のレームスが「こんなけちな壁なんかなんにもならない」と言ってひととびに飛び越して見せた。そのために結局レームスは殺されたのであるが、しかしロムルスの命令によって殺されたかどうかは不明だとある。そうして「いずれにしてもレームスは最初の犠牲《ヴィクティマ》であって、しかして彼の血をもって新市の堡塁を浄化した」とある。
 この話は人柱とは少しちがうが、しかしどこかしらだいぶ似たところがある。
 豚や牛のように人間を殺して生贄《いけにえ》とすることは西洋には昔はよくあったらしいが、
前へ 次へ
全40ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング