催された。いろいろおもしろいものが陳列されている中に、伊藤博文公夫人が公の愛用のシガーのバンドをたくさんに集めて、それを六枚折り(?)の屏風《びょうぶ》に貼り込んだのがある。古切手を貼った面とこのバンドを貼った面とが交互になっている。
 こういうたんねんな仕事に興味をもつ夫人をもっていたということが、あの伊藤公の生涯にやはりそれだけの影響を及ぼしたのかもしれないと思った。

 明治節の朝、朝香宮《あさかのみや》妃殿下の薨去《こうきょ》が報ぜられた。風が寒かったが日は暖かであった。上野から省線で横浜へ行って山下町《やましたちょう》の海岸のプロムナードで「汽船のいる風景」をながめた。このへんのいろいろなビルディングにいろいろな外国の国旗が上がっている。その中で、とある建物に上がっている米国の国旗だけが半旗として掲げられている。これが他の国旗ならなんとも思わないであろうが、米国旗であるだけにそれが妙にいろいろな複雑な意味のあるように思われてしかたがなかった。[#地から1字上げ](昭和八年十二月、渋柿)
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   曙町より(十八)


 このごろ朝が寒いので床の中で寝たままメリヤスのズボン下をはき、それから、すでに夜じゅう着たきりのシャツの上にもう一枚のシャツを、これも寝たままで着ることを発明して実行している。
 今朝はよほど頭が悪かったと見えて、手さぐりで見当をつけておいたにかかわらず突っ込んだ右の脚はまちがいなくズボン下の左脚にはいっていた。それからシャツを頭から引っかぶってみるとどうもぐあいが変である。左の腕は寝衣《ねまき》を脱いでいるが右の腕のほうはまだ袖《そで》の中にはいっていたのである。
 出勤前に洋服に着換えるとき、チョッキのボタンを上から順にかけて行くとおしまいのボタンには相手が見つからなかった。
 そんなことでよくお役目がつとまるとある人が感心する。自分も感心する。
 しかし、こののろまのおかげで三十年の学窓生活をつづけて来た。ものぐさのおかげで大臣にも富豪にも泥坊《どろぼう》にも乞食《こじき》にもならずにすんだのかもしれない。
 自分は冬じゅうは半分肺炎に罹《かか》りかけている。ちょっとどうかすれば肺炎になりそうである。たった一晩泥坊かせぎに出たらただそれだけでまいってしまうであろうと思う。泥坊のできる泥坊の健康がうらやましく、大臣になって刑務所へはいるほどの精力がうらやましく、富豪になって首を釣るほどの活力がうらやましい。[#地から1字上げ](昭和九年二月、渋柿)
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   曙町より(十九)


 映画「カンチェンジュンガ」を見た。芝居気の交じらないきまじめな実写の編輯は気持ちのいいものである。
 インドの山中の山家が日本のによく似ているのをおもしろくもなつかしく思った。それから、目的の山に近づく前に一度深い谷へ降りて行く光景の映写されるのもおもしろかった。
 人間の世界を離れた高山に思いがけなく一寸法師の夫婦が子供を一人養っているのを発見して撮影している。これを見たとき「人生の意義」などというものが文明国の人間などになかなかそう簡単にわかるものではないという気がした。
 数十頭のヤク牛が重い荷を負わされて雪解けの谿流を徒渉《としょう》するのを見ていたら妙に悲しくなって来た。牛もクリーも探検隊の人々自身もなんのためにこの辛酸《しんさん》を嘗めているかは知らないのである。
 まっ自な雪原を横切る隊列の遠望写真を見たときは、人間も虫もこんな大自然の前にはあまり同等なものと思われた。雪崩《なだれ》の実写は驚嘆すべき見ものであるが山の神様の手からただひとつまみの雪がこぼれただけである。
 大きな雲の塊《かたまり》が登山者に迫って来るのを見ていたら、その雲が何かものを言っているような気がして来た。その言っていることがはっきりわかったような気がしたが、しかし、それはやはり人間の言葉ではどうしても言い現わせないものであった。
 ぜひ一遍見て来たまえ。そうしてこの「雲の言葉」を句にしてくれたまえ。[#地から1字上げ](昭和九年四月、渋柿)
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   曙町より(二十)


 有名なエノケンをはじめて映画で見た。これまで写真を見ただけで、どうしても実物の芝居を見る気がしなかったが、映画で見ると予想したほどに不愉快ではなく、やはりときどきは笑わされてしまった。
 彼にはやはりどこかに「強い」ところがあると見える。それが少なくも彼としての「成効」の原因であろう。とにかく見物が大丈夫笑ってくれるという自信をもっているらしい。
 自信のないことを自覚している演芸ほど見ていて苦しいものはない。しかし、そうかと言って、自信するだけの客観的内容のないただ主観的なだけの自信をふり回す芸も困ることはもちろんで
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