われない。[#地から1字上げ](大正九年十一月、渋柿)
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「庭の植え込みの中などで、しゃがんで草をむしっていると、不思議な性的の衝動を感じることがある」
と一人が言う。
「そう言えば、私はひとりで荒磯の岩陰などにいて、潮の香をかいでいる時に、やはりそういう気のすることがあるようだ」
ともう一人が言った。
この対話を聞いた時に、私はなんだか非常に恐ろしい事実に逢著《ほうちゃく》したような気がした。
自然界と人間との間の関係には、まだわれわれの夢にも知らないようなものが、いくらでもあるのではないか。[#地から1字上げ](大正九年十二月、渋柿)
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気象学者が cirrus と名づける雲がある。
白い羽毛のようなのや、刷毛《はけ》で引いたようなのがある。
通例|巻雲《けんうん》と訳されている。
私の子供はそんなことは無視してしまって、勝手にスウスウ雲と命名してしまった。[#地から1字上げ](大正九年十二月、渋柿)
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親類のTが八つになる男の子を連れて年始に来た。
古い昔の教導団出身の彼は、中学校の体操教師で、男の子ばかり九人養っている。
宅《うち》へ行って見ると、畳も建具も、実に手のつけ所のないほどに破れ損じているのである。
挨拶がすんで、屠蘇《とそ》が出て、しばらく話しているうちに、その子はつかつかと縁側へ立って行った、と思うといきなりそこの柱へ抱きついて、見る間に頂上までよじ上ってしまった。
Tがあわててしかると、するするとすべり落ちて、Tの横の座蒲団《ざぶとん》の上にきちんとすわって、袴《はかま》のひざを合わせた上へ、だいぶひびの切れた両手を正しくついて、そうして知らん顔をしているのであった。
しきりに言い訳をするTを気の毒とは思いながらも、私は愉快な、心からの笑い声が咽喉からせり上げて来るのを防ぎかねた。
貧しくてもにぎやかな家庭で、八人の兄弟の間に自由にほがらかに活溌に育って来たこの子の身の上を、これとは反対に実に静かでさびしかった自分の幼時の生活に思い比べて、少しうらやましいような気もするのであった。[#地から1字上げ](大正十年一月、渋柿)
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人殺しをした人々の魂が、毎年きまったある月のある日の夜中に墓の中から呼び出される。
そうして、めいめいの昔の犯罪の現場を見舞わせられる。
行きがけには、だれも彼も
「正当だ。おれのしたことは正当だ」
とつぶやきながら出かけて行く。
……しかし、帰りには、みんな
「悪かった。悪かった」
とつぶやきながら、めいめいの墓場へ帰って行くそうである。
私は、……人殺しだけはしないことにきめようと思う。[#地から1字上げ](大正十年二月、渋柿)
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彼はある日歯医者へ行って、奥歯を一本抜いてもらった。
舌の先でさわってみると、そこにできた空虚な空間が、自分の口腔《こうこう》全体に対して異常に大きく、不合理にだだっ広いもののように思われた。
……それが、ひどく彼に人間の肉体のはかなさ、たよりなさを感じさせた。
またある時、かたちんばの下駄《げた》をはいてわずかに三町ばかり歩いた。すると、自分の腰から下が、どうも自分のものでないような、なんとも言われない情けない心持ちになってしまった。
それから、……
そんな事から彼は、おしまいには、とうとう坊主になってしまった。[#地から1字上げ](大正十年二月、渋柿)
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生来の盲人は眼の用を知らない。
始めから眼がないのだから。
眼明きは眼の用を知らない。
生まれた時から眼をもっているのだから。[#地から1字上げ](大正十年三月、渋柿)
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アルバート・ケンプという男が、百十時間ぶっ通しにピアノを弾き続けて、それで世界のレコードを取ったという記事が新聞に出ていた。
驚くべき非音楽的な耳もあるものだと思う。[#地から1字上げ](大正十年三月、渋柿)
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眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。
しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。
なぜだろう。[#地から1字上げ](大正十年三月、渋柿)
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虱《しらみ》をはわせると北へ向く、ということが言い伝えられている。
まだ実験したことはない。
もし、多くの場合にこれが事実であるとすれば、それはこの動物の背光性 negative phototropism によって説明されるであろう。
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