を取って来てこの境界のガラス板をすっかり熔《と》かしてしまう人がある。[#地から1字上げ](大正九年五月、渋柿)
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 宇宙の秘密が知りたくなった、と思うと、いつのまにか自分の手は一塊の土くれをつかんでいた。そうして、ふたつの眼がじいっとそれを見つめていた。
 すると、土くれの分子の中から星雲が生まれ、その中から星と太陽とが生まれ、アミーバと三葉虫《さんようちゅう》とアダムとイヴとが生まれ、それからこの自分が生まれて来るのをまざまざと見た。
 ……そうして自分は科学者になった。
 しばらくすると、今度は、なんだか急に唄いたくなって来た。
 と思うと、知らぬ間に自分の咽喉《のど》から、ひとりでに大きな声が出て来た。
 その声が自分の耳にはいったと思うと、すぐに、自然に次の声が出て来た。
 声が声を呼び、句が句を誘うた。
 そうして、行く雲は軒ばに止まり、山と水とは音をひそめた。
 ……そうして自分は詩人になった。[#地から1字上げ](大正九年八月、渋柿)
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 根津権現《ねづごんげん》の境内のある旗亭《きてい》で大学生が数人会していた。
 夜がふけて、あたりが静かになったころに、どこかでふくろうの鳴くのが聞こえた。
「ふくろうが鳴くね」
と一人が言った。
 するともう一人が
「なに、ありゃあふくろうじゃない、すっぽんだろう」
と言った。
 彼の顔のどこにも戯れの影は見えなかった。
 しばらく顔を見合わせていた仲間の一人が
「だって、君、すっぽんが鳴くのかい」
と聞くと
「でもなんだか鳴きそうな顔をしているじゃないか」
と答えた。
 皆が声を放って笑ったが、その男だけは笑わなかった。
 彼はそう信じているのであった。
 その席に居合わせた学生の一人から、この話を聞かされた時には、自分も大いに笑ったのではあったが、あとでまたよくよく考えてみると、どうもその時にはやはりすっぽんが鳴いたのだろうと思われる。
 ……過去と未来を通じて、すっぽんがふくろうのように鳴くことはないという事が科学的に立証されたとしても、少なくも、その日のその晩の根津権現境内では、たしかにすっぽんが鳴いたのである。[#地から1字上げ](大正九年九月、渋柿)
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 霊山の岩の中に閉じ込められて、無数の宝石が光り輝いていた。
 試みにその中のただ一つを掘り出してこの世の空気にさらすと、たちまちに色も光も消え褪《あ》せた一片の土塊《つちくれ》に変わってしまった。
 同時に、霊山の岩の中に秘められたすべての宝石も、そのことごとくが皆ただの土塊に変わってしまった。
 私の頭の中には、数限りもない美しい絵が秘蔵されていた。
 私は試みに絵筆を取って、その中の一つを画布の上に写してみた。
 ……気のついた時はもう間に合わなかった。
 ……同時に頭の中のすべての美しい絵もみんな無残に塗り汚されてしまった。
 そうして私はただのつまらない一画工になってしまった。[#地から1字上げ](大正九年十月、渋柿)
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 ロンドンの動物園へインドから一匹の傘蛇《コブラ》が届いた。
 蛇には壁蝨《だに》が一面に取りついていた。
 健全な蛇にはこの虫があまりつかないものである。
 こんなことが先ごろの週刊タイムスに出ていた。
「この事実にはいろいろのモラールがある」
とAが言った。
「さらに多くの詩がある」
とBが答えた。[#地から1字上げ](大正九年十月、渋柿)
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 夜ふけの汽車で、一人の紳士が夕刊を見ていた。
 その夕刊の紙面に、犬のあくびをしている写真が、懸賞写真の第一等として掲げてあった。
 その紳士は微笑しながらその写真をながめていたが、やがて、一つ大きなあくびをした。
 ちょうど向かい合わせに乗っていた男もやはり同じ新聞を見ていたが、犬の写真のあるページへ来ると、口のまわりに微笑が浮かんで、そうして、……一つ大きなあくびをした。
 やがて、二人は顔を見合わせて、互いに思わぬ微笑を交換した。
 そうして、ほとんど同時に二人が大きく長くのびやかなあくびをした。
 あらゆる「同情」の中の至純なものである。[#地から1字上げ](大正九年十一月、渋柿)
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 脚《あし》を切断してしまった人が、時々、なくなっている足の先のかゆみや痛みを感じることがあるそうである。
 総入れ歯をした人が、どうかすると、その歯がずきずきうずくように感じることもあるそうである。
 こういう話を聞きながら、私はふと、出家|遁世《とんせい》の人の心を想いみた。
 生命のある限り、世を捨てるということは、とてもできそうに思
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