狸《たぬき》か狢《むじな》の類かと思って、ちょっとさびしい心持ちがした。
 そうして、再びかの荒漠たる中央アジアの砂漠の幻影が、この濃まやかな人波の上に、蜃気楼《しんきろう》のように浮かみ上がって来るのであった。[#地から1字上げ](昭和五年十一月、渋柿)
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   女の顔


 夏目先生が洋行から帰ったときに、あちらの画廊の有名な絵の写真を見せられた。
 そうして、この中で二、三枚好きなのを取れ、と言われた。
 その中に、ギドー・レニの「マグダレナのマリア」があった。
 それからまたサー・ジョシュア・レーノルズの童女や天使などがあった。
 先生の好きな美女の顔のタイプ、といったようなものが、おぼろげに感ぜられるような気がしたのである。
 そのマグダレナのマリアをもらって、神代杉《じんだいすぎ》の安額縁に収めて、下宿の※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]間《びかん》に掲げてあったら、美人の写真なんかかけてけしからん、と言った友人もあった。
 千駄木《せんだぎ》時代に、よくターナーの水彩など見せられたころ、ロゼチの描く腺病質《せんびょうしつ》の美女の絵も示された記憶がある。
 ああいうタイプもきらいではなかったように思う。
 それからまたグリューズの「破瓶《われがめ》」の娘の顔も好きらしかった。
 ヴォラプチュアスだと評しておられた。
 先生の「虞美人草《ぐびじんそう》」の中に出て来るヴォラプチュアスな顔のモデルがすなわちこれであるかと思われる。
 いつか、上野の音楽会へ、先生と二人で出かけた時に、われわれのすぐ前の席に、二十三、四の婦人がいた。
 きわめて地味な服装で、頭髪も油気のない、なんの技巧もない束髪《そくはつ》であった。
 色も少し浅黒いくらいで、おまけに眼鏡《めがね》をかけていた。
 しかし後ろから斜めに見た横顔が実に美しいと思った。
 インテリジェントで、しかも優雅で温良な人柄が、全身から放散しているような気がした。
 音楽会が果てて帰路に、先生にその婦人のことを話すと、先生も注意して見ていたとみえて、あれはいい、君あれをぜひ細君にもらえ、と言われた。
 もちろんどこのだれだかわかるはずもないのである。
 その後しばらくたってのはがきに、このあいだの人にどこかで会ったという報告をよこされた。全集にある「水底の感」という変わった詩はそのころのものであったような気がする。
「趣味の遺伝」もなんだかこれに聯関したところがあるような気がするが、これも覚えちがいかもしれない。
 それはとにかく、この問題の婦人の顔がどこかレニのマリアにも、レーノルズの天使や童女にも、ロゼチの細君や妹にも少しずつ似ていたような気がするのである。
 しかし、一方ではまた、先生が好きであったと称せらるる某女史の顔は、これらとは全くタイプのちがった純日本式の顔であった。
 また「鰹節屋《かつぶしや》のおかみさん」というのも、下町式のタイプだったそうである。
 先生はある時、西洋のある作者のかいたものの話をして「往来で会う女の七十プロセントに恋するというやつがいるぜ」と言って笑われた。
 しかし、今日になって考えてみると、先生自身もやはりその男の中に、一つのプロトタイプを認められたのではなかったかという気もするのである。[#地から1字上げ](昭和六年一月、渋柿)
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[#図8、挿し絵「窓」]
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   曙町より(一)


 先夜はごちそうありがとう。
 あの時、床の間に小手鞠《こでまり》の花が活かっていたが、今日ある知人の細君が来て、おみやげに同じ小でまりとカーネーションをもらった。
 そうして、新築地劇団の「レ・ミゼラブル」の切符をすすめられ、ともかくも預かったものの、あまり気がすすまないので、このほうは失礼して邦楽座の映画を見に行った。
 グレタ・ガルボ主演の「接吻《せっぷん》」というのを見たが、編輯《へんしゅう》のうまいと思うところが数箇所あった。
 たとえば、惨劇の始まろうとする始めだけ見せ、ドアーの外へカメラと観客を追い出した後に、締まった扉だけを暫時《ざんじ》見せる。
 次には電話器だけが大写しに出る。
 それが、どうしたのかと思うほど長く写し出される。
 これはヒロインの※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]躇《ちゅうちょ》の心理を表わすものであろう。
 実際に扉の中で起こったはずの惨劇の結果――横たわる死骸――は、後巻で証拠物件を並べた陳列棚の中の現場写真で、ほんのちらと見せるだけである。
 もっとも、こんなふうな簡単に説明できるような細工にはほんとうのうまみはないので、この映画の監督のジャック・フェイダーの芸術は、むしろ、こんなふうには到底説明する事のできないような微細なところにあ
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