ドイツでは、発動機を使った飛行機の使用製作を制限された。
すると、ドイツ人はすぐに、発動機なしで、もちろん水素なども使わず、ただ風の弛張《しちょう》と上昇気流を利用するだけで上空を翔《か》けり歩く研究を始めた。
最近のレコードとしては約二十分も、らくらくと空中を翔けり回った男がある。
飛んだ距離は二里近くであった。
詩人をいじめると詩が生まれるように、科学者をいじめると、いろいろな発明や発見が生まれるのである。[#地から1字上げ](大正十一年八月、渋柿)
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シヤトルの勧工場《かんこうば》でいろいろのみやげ物を買ったついでに、草花の種を少しばかり求めた。
そのときに、そこの売り子が
「これはあなたにあげましょう。私この花がすきですから」
と言って、おまけに添えてくれたのが、珍しくもない鳳仙花《ほうせんか》の種であった。
帰って来てまいたこれらのいろいろの種のうちの多くのものは、てんで発芽もしなかったし、また生えたのでもたいていろくな花はつけず、一年きりで影も形もなく消えてしまった。
しかし、かの売り子がおまけにくれた鳳仙花だけは、実にみごとに生長して、そうして鳳仙花とは思われないほどに大きく美しく花を着けた。
そうしてその花の種は、今でもなお、年々に裏庭の夏から秋へかけてのながめをにぎわすことになっている。
この一|些事《さじ》の中にも、霊魂不滅の問題が隠れているのではないかという気がする。[#地から1字上げ](大正十一年十一月、渋柿)
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切符をもらったので、久しぶりに上野音楽学校の演奏会を聞きに行った。
あそこの聴衆席にすわって音楽を聞いていると、いつでも学生時代の夢を思い出すと同時にまた夏目先生を想い出すのである。
オーケストラの太鼓を打つ人は、どうも見たところあまり勤めばえのする派手な役割とは思われない。
何事にも光栄の冠を望む若い人にやらせるには、少し気の毒なような役である。
しかし、あれは実際はやはり非常にだいじな役目であるに相違ない。
そう思うと太鼓の人に対するある好感をいだかせられる。
ロシニのスタバト・マーテルを聞きながら、こんなことも考えた。
ほんとうのキリスト教はもうとうの昔に亡《ほろ》びてしまって、ただ幽《かす》かな余響のようなものが、わずかに、こういう音楽の中に生き残っているのではないか。[#地から1字上げ](大正十二年一月、渋柿)
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大学の構内を歩いていた。
病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。
近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄《ぶどう》ぐらいの大きさの疣《いぼ》が一面に簇生《そうせい》していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。
背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。
そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。
そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした。[#地から1字上げ](大正十二年三月、渋柿)
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数年前の早春に、神田の花屋で、ヒアシンスの球根を一つと、チューリップのを五つ六つと買って来て、中庭の小さな花壇に植え付けた。
いずれもみごとな花が咲いた。
ことにチューリップは勢いよく生長して、色さまざまの大きな花を着けた。
ヒアシンスは、そのそばにむしろさびしくひとり咲いていた。
その後別に手入れもせず、冬が来ても掘り上げるだけの世話もせずに、打ち棄ててあるが、それでも春が来ると、忘れずに芽を出して、まだ雑草も生え出ぬ黒い土の上にあざやかな緑色の焔を燃え立たせる。
始めに勢いのよかったチューリップは、年々に萎縮《いしゅく》してしまって、今年はもうほんの申し訳のような葉を出している。
つぼみのあるのもすくないらしい。
これに反して、始めにただ一本であったヒアシンスは、次第に数を増し、それがみんな元気よく生い立って、サファヤで造ったような花を鈴なりに咲かせている。
そうして小さな花壇をわが物のように占領している。
この二つの花の盛衰はわれわれにいろいろな事を考えさせる。[#地から1字上げ](大正十二年五月、渋柿)
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鰻《うなぎ》をとる方法がいろいろある。
筌《うえ》を用いるのは、人間のほうから言って最も受動的な方法である。
鰻のほうで押しかけて来なければものにならない。
次には、蚯蚓《みみず》の数珠《じゅず》を束ねたので誘惑する方法がある。
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