でいた。
 見ているうちに、奇妙な笑いが腹の底から込み上げて来た。
 そうして声をあげてげらげら笑った。
 その瞬間に私は、天と地とが大声をあげて、私といっしょに笑ったような気がした。[#地から1字上げ](大正十年八月、渋柿)
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       *

 猫《ねこ》が居眠りをするということを、つい近ごろ発見した。
 その様子が人間の居眠りのさまに実によく似ている。
 人間はいくら年を取っても、やはり時々は何かしら発見をする機会はあるものと見える。
 これだけは心強いことである。[#地から1字上げ](大正十年八月、渋柿)
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「三から五ひくといくつになる」と聞いてみると、小学一年生は「零になる」と答える。
 中学生がそばで笑っている。
 3−5=−2[#「3−5=−2」は横組み]という「規約」の上に組み立てられた数学がすなわち代数学である。
 しかし3−5=0[#「3−5=0」は横組み]という約束から出発した数学も可能かもしれない。
 しかしそれは代数ではない。
 物事は約束から始まる。
 俳句の約束を無視した短詩形はいくらでも可能である。
 のみならず、それは立派な詩でもありうる。
 しかし、それは、もう決して俳句ではない。[#地から1字上げ](大正十年九月、渋柿)
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 東京へんでは、七月ごろから、もうそろそろ秋の「実質」が顔を出し始める。
 しかし、それがために、かえって、いよいよ秋の「季節」が到来した時の、秋らしい感じは弱められるような気もする。
 たまには、前触れなしの秋が来たらおもしろいかもしれない。[#地から1字上げ](大正十年九月、渋柿)
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[#図1、挿し絵「とうもろこし」]
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 一に一を加えて二になる。
 これは算術である。
 しかし、ヴェクトルの数学では、1に1を加える場合に、その和として、0から2までの間の任意な値を得ることができる。
 美術展覧会の審査には審査員の採点数を加算して採否を決めたりする。
 あれは算術のほかに数学はないと思っている人たちのすることとしか思われない。[#地から1字上げ](大正十年十月、渋柿)
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 新しい帽子を買ってうれしがっている人があるかと思うと、また一方では、古いよごれた帽子をかぶってうれしがっている人がある。[#地から1字上げ](大正十年十月、渋柿)
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 昔、ロンドン塔でライオンを飼っていた。
 十四世紀ごろの記録によると、ライオンの一日の食料その他の費用が六ペンスであった。
 そうして囚人一人前の費用はというと、その六分の一の一ペニーであったそうである。
 今の上野動物園のライオンと、深川の細民との比較がどうなっているか知りたいものである。[#地から1字上げ](大正十年十月、渋柿)
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 コスモスという草は、一度植えると、それから後数年間は、毎年ひとりで生えて来る。
 今年も三、四本出た。
 延び延びて、私の脊丈《せた》けほどに延びたが、いっこうにまだ花が出そうにも見えない。
 今朝行って見ると、枝の尖端《せんたん》に蟻《あり》が二、三|疋《びき》ずつついていて、何かしら仕事をしている。
 よく見ると、なんだか、つぼみらしいものが少し見えるようである。
 コスモスの高さは蟻の身長の数百倍である。
 人間に対する数千尺に当たるわけである。
 どうして蟻がこの高い高い茎の頂上につぼみのできたことをかぎつけるかが不思議である。[#地から1字上げ](大正十年十一月、渋柿)
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 白い萩《はぎ》がいいという人と、赤い萩がいいという人とが、熱心に永い時間議論をしていた。
 これは、実際私が、そばで聞いていたから、確かな事実である。[#地から1字上げ](大正十年十一月、渋柿)
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 田端《たばた》の停車場から出て、線路を横ぎる陸橋のほうへと下りて行く坂道がある。
 そこの道ばたに、小さなふろしきを一枚しいて、その上にがま口を五つ六つ並べ、そのそばにしゃがんで、何かしきりにしゃべっている男があった。
 往来人はおりからまれで、たまに通りかかる人も、だれ一人、この商人を見向いて見ようとはしなかった。
 それでも、この男は、あたかも自分の前に少なくも五、六人の顧客を控えてでもいるような意気込みでしゃべっていた。
 北西の風は道路の砂塵《さじん》をこの簡単な「店」の上にまともに吹きつけていた。
 この男の心持ちを想像しようとしてみたができなかった。
 しかし、めったに人の評価してくれない、あるい
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