ければならない。それで文句はわかってもその内容は実はあんまり身にしみていないらしいので、それでああいう口調と態度とが自然に生まれるのではないかという気がした。
これに反して、文士でも芸術家ないし芸人でも何か一つ腹に覚えのある人の講演には訥弁《とつべん》雄弁の別なしに聞いていて何かしら親しみを感じ、底のほうに何かしら生きて動いているものを感じるから妙なものである。
学者の講演でもやっぱり同じようなことがあるようである。
空腹はなかなか隠せないものらしい。
[#改ページ]
不審紙
子供の時分に漢籍など読むとき、よく意味のわからない箇所にしるしをつけておくために「不審紙《ふしんがみ》」というものを貼り付けて、あとで先生に聞いたり字引きで調べたりするときの栞《しおり》とした。
短冊形《たんざくがた》に切った朱|唐紙《とうし》の小片の一端から前歯で約数平方ミリメートルぐらいの面積の細片を噛み切り、それを舌の尖端に載っけたのを、右の拇指の爪《つめ》の上端に近い部分に移し取っておいて、今度はその爪を書物のページの上に押しつけ、ちょうど蚤《のみ》をつぶすような工合にこの微細な朱唐紙の切片を紙面に貼り付ける。この小紙片がすなわち不審紙である。不審の箇所をマークする紙片の意味である。噛み切る時に赤い紙の表を上にして噛み切り、それをそのまま舌に移し次に爪に移して貼り付けるとちょうど赤い表が本のページで上に向くのである。朱唐紙は色が裏へ抜けていなかったから裏は赤くなかったのである。
そのころでもすでに粗製のうその朱唐紙があって、そういうのは色素が唾液《だえき》で溶かされて書物の紙をよごすので、子供心にもごまかしの不正商品に対して小さな憤懣《ふんまん》を感じるということの入用をしたわけである。
不審が氷解すればそこの不審紙を爪のさきで軽く引っ掻いてはがしてしまう。本物の朱唐紙だとちっともあとが残らない。
中学時代にはもう不審紙などは使わなかった。そのかわりに鉛筆や紫鉛筆でやたらにアンダーラインをしたり、?や!を書き並べて、書物をきたなくするのが自慢であるかのような新習俗に追蹤《ついしょう》してずいぶん勉強して多くの書物を汚損したことであった。
それはとにかく、日本紙に大きな文字を木版刷りにした書物のページに、点々と真紅の不審紙を貼り付けたものの視像を今でもありありと想い出すことができるが、その追憶の幻像を透して、実にいろいろな旧日本の思想や文化の万華鏡がのぞかれるような気がするのである。
[#改ページ]
学会警察
英国の物理学者Dとオーストリアの物理学者Bとが日本へ遊びに来て大学や理化学研究所で講演をしたがいずれも満員以上の盛況だったそうである。
Dは数年前にも一度来朝したが、その後ノーベル賞をもらって世界第一流の学者としての折り紙をつけられた。Bはこれに比べれば今のところ第二流の仲間である。それが偶然にDといっしょに日本へ来たので、同時に肩を並べて歩き、同じ演壇で講演をした。B一人で来たら講演会が催されたかどうかというようなことが学界ゴシップの話題になった。
Dを大学の某研究所に案内していろいろな業績を見せた。前に来たときはかなりいろいろの事に興味を示したそうであるが、今度はいっこうにそっけなくて何を見せても冷淡な態度しか見せなかった、とにかくそういうふうにその研究所の人たちには感ぜられたそうである。
以上の事実はいろいろな意味で記録しておく価値があると思われる。
ずっと前にアインシュタインが来朝したときのことをいろいろ思い出す中に一つあまり従来記録されていないと思うきわめて興味ある現象がある。
アインシュタインが大学内を歩いているときにはいつでも、その後ろに学界の長老たちが影のように附き添って歩いていた。集会の席でも護衛兵のように引き添って立ったりすわったりしていた。珍客を遇する礼として当然のことと思われた。自分らのような弱輩のものがこの碩学《せきがく》に近づいて何か話でもしようと思うと、その護衛のかたがたの中には急に眼を見張りあるいは眉《まゆ》を顰《ひそ》めてその近よるものが何を言い出すかといったような緊張と不安の表情を正直に露出する人もあった。それでたいていの気の弱いものは近寄りたくても近寄れないで遠方からながめるだけであった。なるほど弱輩なものが突拍子もないまずい質問をしたりしては失礼にもなるしまた日本の学界の恥辱《ちじょく》になるという心配もあることであろうと思われたことであった。
それから後は、もう西洋から有名な学者が来てもあまり近よらないことにした。第一言語が不随意で思ったことの三分一も言えず先方のいうこともどれだけわかったかわからないかさえわからないからわざわざ危険を冒して近よる
前へ
次へ
全40ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング