ーナリズムのトリックである。
[#改ページ]

       *

 夜中に眼が覚めた。どこかで「デンポー、デンポー」と言っているらしい声が聞こえる。それから五分もたつとまた同じような声が聞こえる。あまり長い間をおいてしばしば繰り返されるから不思議だと思って注意していると数町さきの通りを通る自動車の「ブ、ブー」という警笛が聞こえる。さっきの「デンポー」はやはり自動車の警笛であった。笛のうちには音色がかなり人声に似たのがあると見える。
[#改ページ]

       *

 犬吠岬《いぬぼうざき》の茶店の主人の話だそうである。三十年来の経験で、自殺者心中者はたいてい様子でわかる。思案にくれて懊悩《おうのう》しているようなのはかえって死なない。写真でも撮らせたり、ひどく元気よくはしゃいでいるのが怪しいということである。いったい死ぬほどに意気銷沈《いきしょうちん》したものなら首くくりの縄《なわ》を懸けるさえ大儀な気がしそうである。それをわざわざ遠く出かけて、しかも三原や浅間に山登りをする元気があるのは不思議なような気がする。こういう種類の自殺者は、悲観のためではなくてみんな興奮のために死ぬるのだろうと思われる。
[#改ページ]

       *

 第一相互館の屋上で夜の銀座をながめていたら、突然停電で屋上はまっ闇になり、同時に銀座の両側の街燈も消えたが、街壁を飾るネオンサインはみんな平気でともっていた。しばらくして、街燈が一度にともったが、自分らのいる屋上はまだまっ暗であった。そうして楼下の町でまずぱっと明るさが増して、しばらくしてからやっと屋上が点燈した。人間の中風《ちゅうぶう》のメカニズムを想い出すのであった。
[#改ページ]

       *

 電話が自働式に変わると同時に所属局が「小石川《こいしかわ》」から「大塚《おおつか》」に移り、さらにまた番号がもとより三〇〇〇だけ数を増した。なんだか自分のうちが遠い所へ持って行かれたような気がする。居《きょ》は心を移すというが、心は居を移すとも言われそうである。
[#改ページ]

       *

 去年の秋|手賀沼《てがぬま》までドライヴしたついでに大利根《おおとね》の新橋まで行ってみた。利根川の河幅はこの橋の上流の所で著しく膨大《ぼうだい》して幅二キロメートル半ほどの沼地になっている。それにただ一面に穂芒《ほすすき》が茂り連なって見渡す限り銀色の漣波《さざなみ》をたたえていた。実にのびのびと大きな景色である。橋のたもとの土手を下りて見上げると、この長さ一キロメートルのまっすぐなコンクリートの橋の下にそれと並行して下流の鉄道の鉄橋が見え、おりから通りかかった上り列車が玩具《おもちゃ》の汽車ででもあるように思われた。
 今までいっこう聞いたこともないこんな所にこんな絶景があると思うことはここに限らずしばしばある。そういう所はしかしたいてい絵にかいても絵にならず、写真をとってもしようのないようなところである。有名な名所になるための資格が欠けているのである。
 こういう所の美しさは純粋な空間の美しさである。それは空虚な空間ではなくて、人間にいちばんだいじな酸素と窒素の混合物で充填《じゅうてん》され、そうしてあらゆる膠質的《こうしつてき》浮游物で象嵌《ぞうがん》された空間の美しさである。肺臓いっぱいに自由に呼吸することのできる空気の無尽蔵の美しさなのである。
 往復ともに小菅《こすげ》の刑務所のそばを通った。刑務所の独房の中の数立方メートルに固く限られた空間を想像してみたときに、この大利根河畔の空間の美しさがいっそう強烈に味わわれるような気がするのであった。
[#改ページ]

       *

 昨年九月の暴風雨で東京の街路樹がだいぶいじめられた。たぶんいわゆる「塩風」であったためか、樹々の南側の葉が焦げたように黒褐色《こくかっしょく》に縮れ上がって、みじめに見すぼらしい光景を呈していた。丸《まる》の内《うち》の街路の鈴懸《すずかけ》の樹のこの惨状を実見したあとで帝劇へ行って二階の休憩室の窓からお堀《ほり》の向こう側の石崖《いしがけ》の上に並んだ黒松をながめてびっくりした。これらの松の針葉はあの塩風にもまれてもちっとも痛まないばかりかかえってこの嵐に会って塵埃《じんあい》を洗い落とされでもしたのか、ブラシでもかけたかと思うようにその濃緑の色を新鮮にして午後の太陽に照らされて輝いているように思われた。
 日本の海岸になぜ黒松が多いかというわけがはじめてはっきりわかったような気がしたのであった。
 国々にそれぞれ昔から固有なものにはやはりそれぞれにそれだけのあるべき理由があるのである。
[#改ページ]

       *

 昭和九年の十一月中旬には東京の丸の内のところどころの柳が青
前へ 次へ
全40ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング