それが神をあがめ慰めるだけでなく、それによって何か難事を遂げさせてもらうための先払いの報酬のような意味で神々にささげる事もあったとすれば、結局は人柱と同じことになるのではないかと思う。
 同じ書物にまた次のような話もある。
 あまり評判のよくないほうで有名なローマの最後の王様タルキヌスがほうぼうで攻め落とした敵の市街からの奪掠物で寺院を建てた。そのときに敷地の土台を掘り返していたら人間の頭蓋骨が一つ出て来た。しかし人々はこれこそこの場所が世界の主都となる瑞兆《ずいちょう》であるということを信じて疑わなかったとある。われわれの現在の考え方だと、これはなんだかむしろ薄気味の悪い凶兆のように思われるのに、当時のローマ人がこれを主都のかための土台石のように感じたのだとすると、その考え方の中にはどこかやはり「人柱」の習俗の根柢《こんてい》に横たわる思想とおのずから相通ずるものがあるような気がする。
 以上偶然読書中に見つけたから安倍君の驥尾《きび》に付して備忘のために誌《しる》しておくことにした。[#地から1字上げ](昭和十年三月、渋柿)
[#改ページ]

   曙町より(二十四)


 ある大きな映画劇場の入場料を五十銭均一にしたら急に入場者が増加して結局総収入が増すことになったといううわさがある。事実はどうだか知らない。しかし、「五十銭均一」という言葉には何かしら現代の一般民衆に親しみと気楽さを吹き込むあるものがあるのではないかという気がする。むつかしい経済学上の理論などはわからないが、あの五十銭銀貨一枚を財布《さいふ》からつまみ出して切符売り場の大理石の板の上へパチリと音を立てるとすぐに切符が眼前に出現するところに一種のさわやかさがある。これが四十七銭均一でいちいち三銭のおつりをもらうのだったらどういうことになるか。相手がドイツ人かあるいは勘定の細かい地方の商売人だったらどうかわからないが、少なくも東京の学生のような観客層に対してはこの五十銭均一のほうが経済観念を超越した吸引力をもっていそうな気がする。
 こんな事を考えていた時に偶然友人の経済学者に会ったので、五十銭銀貨の代わりに四十七銭銀貨を作って流通させたら日本の国の経済にどういう変化が起こるかという愚問を発してみた。これに対する経済学者の詳細な説明を聞いた時は一応わかったような気がしたが、それっきりきれいに忘れて
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