いウエトレスに導かれて、二人の老人がはいって来る。
 それは芭蕉翁《ばしょうおう》と歌麿《うたまろ》とである。
 芭蕉は定食でいいという、歌麿はア・ラ・カルテを主張する。
 前者は氷水、後者はクラレットを飲む。
 前者は少なく、後者は多く食う。
 前者はうれしそうに、あたりをながめて多くは無言であるが、後者はよく談じ、よく論じながら、隣の卓の西洋婦人に、鋭い観察の眼を投げる。
 隣室でジャズが始まると、歌麿の顔が急に活き活きして来る、葡萄酒のせいもあるであろう。
 芭蕉は、相変わらずニコニコしながら、一片の角砂糖をコーヒーの中に落として、じっと見つめている。
 小さな泡《あわ》がまん中へかたまって四方へ開いて消える。
 それが消えると同時に、芭蕉も、歌麿も消えてしまって、自分はただ一人、食堂のすみに取り残された自分を見いだす。[#地から1字上げ](昭和五年九月、渋柿)
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   震生湖より


 (はがき)昨日《きのう》は、朝、急に思い立ち、秦野《はたの》の南方に、関東地震の際の山崩れのために生じた池、「震生湖《しんせいこ》」というのを見物および撮影に行った。……
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山裂けて成しける池や水すまし
穂芒《ほすすき》や地震《ない》に裂けたる山の腹[#地から1字上げ](昭和五年十月、渋柿)
[#ここで字下げ終わり]
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       *

 新宿、武蔵野館《むさしのかん》で、「トルクシブ」というソビエト映画を見た。
 中央アジアの、人煙稀薄な曠野《こうや》の果てに、剣のような嶺々が、万古の雪をいただいて連なっている。
 その荒漠《こうばく》たる虚無の中へ、ただ一筋の鉄道が、あたかも文明の触手とでもいったように、徐々に、しかし確実に延びて行くのである。
 この映画の中に、おびただしい綿羊の群れを見せたシーンがある。
 あんな広い野を歩くのにも、羊はほとんど身動きのできないほどに密集して歩いて行くのが妙である。
 まるで白泡《しらあわ》を立てた激流を見るようである。
 新宿の通りへ出て見ると、おりから三越の新築開店の翌日であったので、あの狭い人道は非常な混雑で、ちょうどさっき映画で見た羊の群れと同じようである。
 してみると、人間という動物にも、やはりどこか綿羊と共通な性質があるものと見える。
 そう考えると、自分などは、まず
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