こにも影をとどめなくなったらしい。
 そうして、近ごろ都会で行なわれるような、最も不純で、最も堕落したいろいろの様式ができあがった。」
 こう言ってP君が野蛮主義を謳歌《おうか》するのである。[#地から1字上げ](大正十年六月、渋柿)
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       *

 足尾《あしお》の坑夫のおかみさんたちが、古河《ふるかわ》男爵夫人に面会を求めるために上京した。
「男爵の奥様でも私たちでもやっぱり同じ女だ」といったような意味のことを揚言したそうである。
 僕はこの新聞を読んだ時に、そのおかみさんたちの顔がありあり見えるような気がした。
 そうして腹が立った。……
 いくらデモクラシーが世界に瀰漫《びまん》しても、ルビーと煉瓦《れんが》の欠けらとが一つになるか、と、どなりたくなった。……
 ヴィナスのアリストクラシーは永遠のものである。
 こう言ってQ君が一人で腹を立てている。[#地から1字上げ](大正十年六月、渋柿)
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       *

 油画をかいてみる。
 正直に実物のとおりの各部分の色を、それらの各部分に相当する「各部分」に塗ったのでは、できあがった結果の「全体」はさっぱり実物らしくない。
 全体が実物らしく見えるように描くには、「部分」を実物とはちがうように描かなければいけないということになる。
 印象派の起こったわけが、やっと少しわかって来たような気がする。
 思ったことを如実に言い現わすためには、思ったとおりを言わないことが必要だという場合もあるかもしれない。[#地から1字上げ](大正十年七月、渋柿)
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 寝入りぎわの夢現《ゆめうつつ》の境に、眼の前に長い梯子《はしご》のようなものが現われる。
 梯子の下に自分がいて、これから登ろうとして見上げているのか、それとも、梯子の上にいて、これから降りようとしているのか、どう考えてもわからない。[#地から1字上げ](大正十年七月、渋柿)
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       *

 嵐《あらし》の夜が明けかかった。
 雨戸を細目にあけて外をのぞいて見ると、塀《へい》は倒れ、軒ばの瓦《かわら》ははがれ、あらゆる木も草もことごとく自然の姿を乱されていた。
 大きな銀杏《いちょう》のこずえが、巨人の手を振るようになびき、吹きちぎられた葉が礫《こいし》のようにけし飛ん
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