て、それぞれちがった特色をもっているのではないかと想像される。しかし具体的の分類をしろと言われるとやはりむつかしい。
それはとにかく先生の芸術なりまたその芸術の父なる先生の人に吸引されてしばしばその門に出入した人々を「お弟子」と名づけることになっているようである。しかしこの上記の定義は実ははなはだ不完全であるかと思われる。たとえば故○○君のごとく先生に傾倒して毎週ほとんど欠かさず出入りして、そうして先生の揮毫《きごう》を見守っていた人が、やはり普通の意味でお弟子と言われるかどうか疑問である。そのほかにも始終先生に接していながら先生からどれだけの精神的影響を受けたかということがわかりにくい人もあるかもしれない。反対に先生に接しないでただその作品だけから異常に強い影響を受けている人もたくさんあるかもしれない。こうなると何がお弟子で何がお弟子でないかわからなくなってしまう。
しかし、どんな人でも先生に接して後のその人を見て、もし先生に接しなかったとした場合のその人を推察することは不可能であるから、先生の影響が無いなどとは言われないわけである。してみると結局「お弟子」の定義には証明の可能な「門戸出入」の頻度《ひんど》を標準とするのが唯一の「実証的」な根拠なのであろう。
もし何かの訴訟事件でも起こって甲某が先生の弟子であったか、なかったかという事が問題になったとしたら――そんなことがありうるかどうかは知らないが――その時にはやはりこの「実証」以外に何物も物を言わないであろうと思う。
お弟子の名もはかないものである。
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震災や火災や風水害に関する科学的常識とこれに対する平生の心得といったようなものを小学校の教科書に入れるということは、日本のような国では実に必要なことである。これはほとんど「問題にならぬ」ほど明白なことであると思われるのに、これがどういうわけだかいっこうに実行されていないで時々「問題になる」ようである。
自分の想像するところでは、結局教科書を編纂《へんさん》する機関の中に科学的な頭脳とその主動的な要素が欠除しているのではないかと思われる。もしかこの想像がいくぶんでも当たっているとしたら、はなはだ逆説的な言い分ではあるが、小学生を教える前にまず文部省を教育しなければならないのだとも言われるかもしれない。
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