ような不満は従来の鉄道省の宣伝映画を見ているうちにもしばしば感じたことがある。現に眼前に映写されている光景が観客の知識の戸棚のどの引き出しに入れていいかわからないで、ラベルのつかないばらばらの断片になってしまっているのである。
 同じようなことであるが、ある一場面と次の一場面との空間的関係を示すような注意が一般にあまりに閑却され過ぎている。キャメラが一町とは動いていない場合に、面画は何千里の遠方にあるか想像もできないようなひとり合点の編集ぶりは不親切である。
 むだなようでもこうした実写映画では観客の頭の中へ空間的時間的な橋をかけながら進行するように希望したいのである。

     三 誤解されたトーキー

 トーキーは物を言う映画だからと言っても、何もむやみに物を言わせる必要はない。このことはトーキーが発明されてから後にまもなく発見された平凡な真理である。しかし、このことがまだ今日でも発声映画製作者に充分には理解されていないのではないかと思われることがしばしばある。
 アメリカ映画でも、言葉のよくわからぬわれわれにはどうもあまりしゃべり過ぎてうるさく感ぜられることが多いが、これはやむを得ないかもしれない。とにかくジミー・デュラントを聞いていると頭が痛くなるだけでちっともおかしくないが、あまりしゃべらないフィールズやローレル、ハーディのほうは楽しめる。
「雁来紅《かりそめのくちべに》」という奇妙な映画で、台湾《たいわん》の物産会社の東京支店の支配人が、上京した社長をこれから迎えるというので事務室で事務成績報告の予行演習をやるところがある。自分の椅子《いす》に社長をすわらせたつもりにして、その前に帳簿を並べて説明とお世辞の予習をする。それが大きな声で滔々《とうとう》と弁じ立てるのでちっともおかしくなくて不愉快である。これが、もしか黙ってああしたしぐさだけをやっているのであったら見ている観客には相当におかしかったかもしれないのである。音がほしければ窓外のチンドン屋のはやしでも聞かせたほうがまだましであろう。それからたとえばまた「直八子供旅《なおはちこどもたび》」では比較的むだな饒舌《じょうぜつ》が少ないようであるが、ひとり旅に出た子供のあとを追い駆ける男が、途中で子供の歩幅とおとなのそれとの比較をして、その目の子勘定の結果から自分の行き過ぎに気がついて引き返すという場面
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