いたようである。
 ルネ・クレールでもデュヴィヴィエでも配役の選択が上手《じょうず》である。いくらはやりっ子のプレジアンでも、相手がいつも同じ相手役では、結局同じ穴のまわりをぐるぐる回ることになるであろう。
 このあいだ見た蒲田《かまた》映画「その夜の女」などでも日本映画としては相当進歩したものではあろうが、しかし配役があまりに定石的で、あまりに板につき過ぎているためにかえってなんとなくステールな糠味噌《ぬかみそ》のようなにおいがして、せっかくのネオ・リアリズムの「ネオ」がきかなくなるように感ぜられた。これは日本映画の将来の改善のために根本的な問題を提供するものだと思われる。

     二 実写映画に関する希望

 せんだって「北進日本」という実写映画を見た。いろいろな点でなかなかよくできているおもしろい映画であると思われた。ただ一つはなはだしく不満に思われたのは、せっかくの実写に対する説明の言葉が妙に気取り過ぎていて、自分らのような観客にとっていちばん肝心の現実的な解説が省かれていることであった。たとえば場面が一転して、海上から見た島山の美しい景色が映写された瞬間にわれわれの頭には「どこだろう」という疑問が浮かぶ。ところがこれに対する説明の録音は気取った調子で「千島《ちしま》にも春は来ました」とそれっきりである。千島の何島のどの部分の海岸をどの方向から見たのだか、また何月何日ごろの季節だか、そういう点が全然わからないのである。同じように、トナカイの群れを養う土人の家族が映写されても、それがカラフトのおおよそどのへんに住むなんという種族の土人だかまるきりわからないから、せっかくの印象を頭の中のどの戸棚《とだな》にしまってよいか全く戸まどいをさせられる。
 材木の切り出し作業や製紙工場の光景でも、ちょっと簡単な地図でも途中に插入《そうにゅう》して具体的の位置所在を示しならびに季節をも示してくれたら、興味も効能も幾層倍するであろう。しかるに、その肝心な空間的時間的な座標軸を抜きにして、いたずらに縹渺《ひょうびょう》たる美辞(?)を連ねるだけであるからせっかくの現実映画の現実性がことごとく抜けてしまって、ただおとぎ話の夢の国の光景のようなものになってしまうだけである。
 もう少し観客を子供扱いにしないでおとな扱いにしてもらいたいという気がしたことであった。
 これと同じ
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