である。ことによると、こうした種類のものがかえって「いわゆる抽象映画」などよりももっと抽象的な、そうして純粋に映画的な映画であるのかもしれないというふうに思われて来るのである。

     十四 「黒鯨亭」

 エミール・ヤニングス主演のこの映画は、はじめからおしまいまで、この主役者の濃厚な個性でおおい尽くされた地色の上に適当な色合いを見計らった脇役《わきやく》の模様を置いた壁掛けのようなものである。もっとも同じくヤニングスのものであっても相手役にディートリヒとかアンナ・ステンとかがいる場合は必ずしもそうはならないようであるが、この現在の場合における助演者はこのように主演者と対立して二重奏を演ずるためにはあまりに影が薄いようである。
 そのかわりにまたこの映画は「ヤニングスの芝居」を見ようと思う観客にとっては、最も多くの満足を与えるようにできているのかもしれない。たとえば家出して船乗りになった一人むすこからの最初の手紙が届いたときに、友だちの手前わざとふくれっ面《つら》をして見せたり、居間へ引っ込んでからあわててその手紙を読もうとしてめがねを落として割ったりする場面の彼一流の細かい芸は、臭みもあるかもしれないがやはりこの人らしい妙味はあるであろう。こういう点で細かいくふうをするのがどこか六代目|菊五郎《きくごろう》の凝り方と似たところがありはしないか。もっとも日本人|菊五郎《きくごろう》はくふうを隠すことに骨を折りドイツ人ヤニングスはくふうを見せる事をつとめているという相違はあるかもしれない。
 心理的にはかなりおかしいと思われるところでも芸の細かさでたいした矛盾を感じさせないで筋を通して行くといったようなところが一二か所あったようである。
 この映画と比較してみると、前条に引き合いに出した「模倣の人生」のほうではいわゆる主演者はあっても「黒鯨亭《こくげいてい》」のごとき意味での独裁的主役は無い、むしろいろいろな個性の配合そのもののほうに観客のおもなる興味がつながれているように思われる。それでたとえば軽い意味の助演者としてのスパークスなどという役者でも決してただのむだな点景人物ではなくて、言わば個性シンフォニーの中の重要な一楽器としての役目を充分に果たしているようである。これに反してヤニングスの場合は彼の「独唱」にただ若干の家庭楽器の伴奏をつけたかのような感じがしな
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