き出しているのではないかという気もする。
 自分は、実地を踏んで見るまでは、パリという都をただなんとなしに明るく陽気な所のように想像し、フランス人をのどかに朗らかな民族とばかり思っていたのに、ドイツからフランスへ移って見聞するうちに、この予想がことごとく裏切られた。パリの町はすすけてきたなく土地の人間にはいったいになんとなく陰気でほろにがい気分がただよっているように感ぜられたのであった。ところが、今このガンスの作品を見て昔日のこの感じを新たにするような気がした。主役をつとめるノバリーク兄弟とその敵役《かたきやく》ショーンブルクの相貌《そうぼう》もこの一種特別な感じを強めるもののように思われた。しかもそれらの顔のクローズアップのむしろ頻繁《ひんぱん》な繰り返しはいよいよその暗い印象を強めるのであった。
 彗星《すいせい》の表現はあまりにも真実性の乏しい子供だましのトリックのように思われたが、大吹雪《おおふぶき》や火山の噴煙やのいろいろな実写フィルムをさまざまに編集して、ともかくも世界滅亡のカタクリズムを表現しようと試みた努力の中にはさすがにこの作者の老巧さの片影を認めることもできないことはないようである。
 このフランス映画がなんとなく陰気でどこかじじむさい感じがするのに引きかえて一方のアメリカ映画「模倣の人生」はいかにも明るく新鮮である。この目立った差別には、写真レンズやフィルムの光学的化学的な技術の差から来るものもないとは言われないが、しかしなんといっても国民性の相違から来る根本的なものがすべてを支配し決定しているとしか思われない。このアメリカ映画の話の筋は決してそう明るいものではなくむしろその奥底にはかなりに悲惨な現実の問題を提供しているはずのものであるのに、映画として観客に与える感覚は主として明るくさわやかに新鮮な視像の系列としてのそれである。薄ぎたないかび臭い場面などはどこにも見られないで、言わば白いエナメルとニッケルの光沢とが全編の基調をなしているようである。どうもこういうのが近ごろのアメリカ映画の一つの定型であるらしい。たとえば「白衣の騎士」などもやはり同じ定型に属するものと見ることができはしないかと思う。この型の映画は見たあとで物語の筋などは霧のように消えてしまうが、ただ筋とはたいした関係もないような若干の場面の視覚的印象だけがかなり鮮明に残留するよう
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