この三人が敵の牢屋《ろうや》に入れられてからのクライマックスがちゃんと生きて来るように思われる。事件的には縁がない代わりに心理的の伏線になるのである。拷問の後にほうり込まれた牢獄《ろうごく》の中で眼前に迫る生死の境に臨んでいながらばかげた油虫の競走をやらせたりするのでも決してむだな插話《そうわ》でなくて、この活劇を生かす上においてきわめて重要な「俳諧《はいかい》」であると思われる。最後のトニカを響かせる準備の導音のような意味もあるらしい。
配役の選択がうまい。鈍重なスコッチとスマートなロンドン子と神経質なお坊っちゃんとの対照が三人の俳優で適当に代表されている。対話のユーモアやアイロニーが充分にわからないのは残念であるが、わかるところだけでもずいぶんおもしろい。新入りの二人を出迎えに行った先輩のスコッチが一人をつかまえて「お前がストーンか」と聞くと「おれはフォーサイスだ」と答える。「それじゃあれがストーンだ」というと、「驚くべき推理の力だな」と冷やかす。
牢屋でフォーサイスが敵将につかみかかって従者に打ちのめされる。敵将が「勇気には知恵が伴なわなければだめだよ」といって得意になる。敵将が去って後に仲間が「ばかやろう」とののしるのには答えないで黙って握りこぶしをあけて見せる。つかみかかったときの騒ぎにまぎれて弾薬をすり取っていたのである。敵将のいった言葉がここで皮肉に生きて来て観客を喜ばせるのである。
九 アラン
「ベンガルの槍騎兵《そうきへい》」などとは全く格のちがった映画である。娯楽として見るにはあまりにリアルな自然そのものの迫力が強すぎるような気がする。神経の弱いものには軽い脳貧血を起こさせるほどである。こんな土の見えない岩ばかりの地面をひと月もつづけて見ていたらだれでも少し気が変になりはしないかという気がした。
うば鮫《ざめ》を捕獲する一巻でも同じような場面がずいぶん繰り返し長く映写されるので、ある意味では少し退屈である。しかしこの退屈は下手《へた》な芝居映画の退屈などとは全く類を異にした退屈であって、それは画中の人生と自然そのものの退屈から来る圧迫感である。詳しくいえば、大西洋の海面の恒久の退屈さでありアラン島民の生活の永遠の退屈さである。退屈というのが悪ければ深刻な憂鬱《ゆううつ》である。それを観客に体験させる。
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